志賀庄(読み)しがのしよう

日本歴史地名大系 「志賀庄」の解説

志賀庄
しがのしよう

南庄・北庄の両庄からなり、南北庄ともいう。建暦三年(一二一三)の慈鎮所領譲状案に延暦寺の三昧さんまい院領として「南庄御相折庄也、北庄」とみえ、年貢は同院の保全維持に用いられていたと考えられる。貞応元年(一二二二)六月日の慈円置文にも三昧院領南北庄とあり、「近江国坂下南北也、向為御相料也」と注される。さらに年貢は五二〇石余で、その成り立ちについて「本三百余、今為一色令増也」と記されることから、これよりさほどさかのぼらない時期に本家の青蓮院門跡の一円支配が成立していた。

志賀庄
しがのしよう

「続風土記」によると、近世小中おなか村と下志賀しもしが・中志賀・久志くし・上志賀・かしわの諸村(天保郷帳では「志賀村」)を称した。同書は三尾みお庄も含めて「東は小池富安高家三荘に接し、北は海部郡由良荘に界し、西南海に瀕して其広袤大抵方一里、其地は即古の内原郷の内なり、中世領主詳ならす、後世は皆湯川氏の領内なり」と記し、農業を専らとした地域とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報