志津良庄(読み)しつらのしよう

日本歴史地名大系 「志津良庄」の解説

志津良庄
しつらのしよう

現門前町皆月みなづき餅田もちだ五十洲いぎす吉浦よしうら六郎木ろくろぎ深見ふかみ鹿磯かいそ鵜山うやま大滝おおだき百成大角間どうめきおおがくま井守上坂いもりあげさか暮坂くれさか薄野すすきのから輪島市西部を含む一帯に比定される。志都良・志津浦・七浦とも記す。

承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「志津良庄 七町」とみえ、久安二年(一一四六)に立庄されたものであった。天福二年(一二三四)八月日の慈源所領注文写(華頂要略)に近江延暦寺無動むどう寺領として「志都良庄有本寺々用」とみえる。永和五年(一三七九)一月一一日弥郡時具は「しつらのしやう」大沢おおざわ(現輪島市)の地頭職五分の二を同名丹内左衛門の息若正丸を養子として譲与し(「弥郡時具譲状案」弥郡文書)、能登守護吉見氏頼から安堵されている(康暦元年四月一三日「吉見氏頼書下案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報