忍頂寺五ヶ庄(読み)にんちようじごかのしよう

日本歴史地名大系 「忍頂寺五ヶ庄」の解説

忍頂寺五ヶ庄
にんちようじごかのしよう

竜王りゆうおう山西麓の忍頂寺付近にあった京都仁和寺領庄園。忍頂寺五ヶ村とも称し、正和三年(一三一四)一二月七日付の仁和寺法親王庁下文(勝尾寺文書)に「忍頂寺五箇村」の住民が勝尾かつお(現箕面市)領内に乱入したことを記す。忍頂寺があって「寺辺じへん村」ともよばれた忍頂寺村と安威あい川の支流である下音羽しもおとわ川上流の音羽村(下音羽村・上音羽村)銭原ぜにはら村、佐保さほ川上流の佐保村泉原いずはら村の山間部五ヵ村からなる。忍頂寺は貞観二年(八六〇)僧三澄により建立され、保安元年(一一二〇)の摂津国正税帳案(九条家冊子本中右記裏文書)には「忍頂寺伍佰束」とみえ、加挙本稲が与えられている。寛喜二年(一二三〇)閏正月二七日付の勝尾寺四至注文(勝尾寺文書)に勝尾寺の「東限泉原御室御領」とあり、泉原が御室(仁和寺)領であったことがわかる。当時忍頂寺は仁和寺末寺となっており、当庄の成立は平安期に封戸や加挙稲などの便補として忍頂寺寺辺に所領が認められ、やがて本寺仁和寺の手により周辺の銭原・音羽・泉原・佐保の各村へと所領拡大がなされたのではないかと推測される。

寺辺村は仁治二年(一二四一)一一月日付の忍頂寺寺辺村所当米散用状(仁和寺文書)によれば本田一六町四反余で、河成荒田と地元寺庵田などの除田が一町二反余あり、定田一五町一反余であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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