後藤家(読み)ごとうけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「後藤家」の意味・わかりやすい解説

後藤家
ごとうけ

室町後期から幕末に至る装剣金工家の家系。後藤祐乗(ゆうじょう)を祖とし、足利(あしかが)家以来、織田、豊臣(とよとみ)、徳川の各将軍家に仕えて16代に及び(17代典乗は明治)、さらに傍系一門が繁栄してこの世界第一の勢力となった。後藤宗家は10代廉乗の1662年(寛文2)に京都から江戸に移る。

 代々将軍家の御用を勤めたところから、その作を「家彫(いえぼり)」と称し、町職人の「町彫(まちぼり)」と格式を異にした。作品は鐔(つば)の製作は少なく、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)などを主として、いずれも用いる素材は赤銅、金、銀で、原則的に鉄は使用しなかった。図柄は、絵師狩野(かのう)家のごとく、技法とともに一定の規格を守り続けて、竜(りゅう)、獅子(しし)、波文、紋散(もんぢらし)、武者花鳥草木などの高彫りの作品を製作した。したがって、りっぱではあるが、町彫のように取題や技法の自由さと斬新(ざんしん)さに欠けるきらいがある。金座後藤家はこの傍系。

[小笠原信夫]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の後藤家の言及

【後藤徳乗】より

後藤祐乗を祖とする後藤宗家の5代目で,通称を源次郎光基といい,父光乗の嫡男として京都に生まれた。後藤家は代々装剣金具の製作を家業とし,足利将軍家に仕えたが,足利家滅亡後,徳乗は織田信長,豊臣秀吉に仕えた。特筆すべきは,家業のほかに大判金と金銀を測る天秤の分銅を製作したことで,同家の記録では1581年(天正9)信長から父とともに分銅大判役を命ぜられたと伝えている。…

【後藤祐乗】より

…代表作には《獅子造小サ刀》《濡烏図二所物》《俱利迦羅竜三所物》などがある。 祐乗を祖とする後藤家は装剣金工を家業として江戸時代末期までさかえ,宗家として重きをなした。足利,豊臣,徳川家などの御用をつぎつぎとつとめたところから後藤家の作品は家彫と呼ばれ,町彫とは格式を異にした。…

※「後藤家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」