弘田御厨・弘田庄(読み)ひろたのみくりや・ひろたのしよう

日本歴史地名大系 「弘田御厨・弘田庄」の解説

弘田御厨・弘田庄
ひろたのみくりや・ひろたのしよう

旧常願寺川扇状地の末端部に広がった湿地帯を含む地域、近世広田ひろた郷一帯に比定される。この地域は常願寺川と同川から西に分れたあら川が赤江あかえ川に合流する間の地で、両河川からの分流が入り込んでおり、安定耕地と不湖と称される低湿地とが入組んでいた。この地の開発は建久三年(一一九二)八月日の伊勢大神宮神領注文(神宮文庫所蔵文書)に「越中国弘田御厨、件御厨、去仁平年中建立、同三年被下奉免宣旨」とあり、仁平年中(一一五一―五四)にさかのぼるという。建久元年四月一九日には源頼朝が弘田御厨および同加納などにおける造内宮役夫工料の未済を京都在住の国司・領家あるいは国衙・庄家に知らせ、厳しく成敗するように命じている(「吾妻鏡」同日条)。同年段階での弘田御厨の給主は惟幸であるが、その詳細は不明。同三年段階での給主は散位故友業子息であるが(前掲注文)、友業とは「尊卑分脈」の魚名公孫に「大和進士」と注記される藤原友業で、その子息とは日野範業の養子となった六条院蔵人維業であろう。なお前掲注文では弘田御厨は内宮方として長日御幣紙六四八帖、外宮方として米三〇石・八丈絹三〇疋・白布三〇端・綿三〇〇両・鮭三〇隻・長日御幣紙五四〇帖を課されており、南北朝期には田積は三三二町で、内宮上分として長日御幣紙六四八帖、外宮上分として一五石・八丈絹一五疋・四丈布一五段・綿一五〇両・鮭一五隻を課されていた(神鳳鈔)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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