庄内村(読み)しようないむら

日本歴史地名大系 「庄内村」の解説

庄内村
しようないむら

[現在地名]詫間町香田こうだ大浜おおはま生里なまりはこつむ粟島あわしま志々島ししじま仁尾にお家浦いえのうら

荘内しようない半島中央部から北西部を占める。庄内中ともいう。香田浦大浜浦・生里浦・箱浦・積浦、家浦の六浦と粟島・志々島からなる。寛永国絵図に庄内浦とあり高六三八石、前述の六浦二島を含む。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では庄内中としてほぼ同高で、「悪所」と記される。同一八年の小物成は綿五〇匁、米五石七斗余(御菜米)であった(山崎領小物成帳)

庄内村
しようないむら

[現在地名]松本市中央ちゆうおう一―三丁目・深志ふかし一丁目・本庄ほんじよう一―二丁目

松本城下町をめぐる庄内しようない組の一村城下町の南に接し、ほん町・馬喰ばくろう町によって中断され東と西に分れる。天正検地には一千二四〇石九斗八升八合の村高をもつ大村で、享保九年(一七二四)当時の石高は一千五八六石一斗五升六合二勺である。寛文年間(一六六一―七三)水田は七四町一段六畝二〇歩、畑地は五町八段七畝六歩。

古代ささげノ庄の大部分を占めていたものと思われる。女鳥羽めとば川・すすき川の扇状地の裾に近く、湧水も多く水の便のよい地帯である。大宮大明神がある。

庄内村
しようないむら

[現在地名]新居浜市坂井さかい町一丁目・庄内町一―六丁目・城下しろした町・平形ひらかた町・八雲やくも

新居浜平野のほぼ中央にあり、国領こくりよう川が東を、尻無しりなし川が西を限り、北は幕府領新須賀しんすが村、南は泉川いずみかわ村に接し、村界は菱形をなす。村名は、観応二年(一三五一)の「河野家代々綸旨御教書等之写」(稲葉順通氏蔵)にみえる「井於いのえ庄」のうちという意味かとも考えられる(→新居庄

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)新居郡の項に「高千三百五拾六石六斗三升七合 庄内村 日損所」とあり、寛文六年(一六六六)の「新居郡之内村々高小物成家数人数船数之帳」(「西条誌」所収)には、村高一千九四石八斗余、人数五四六とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報