広瀬庄(読み)ひろせのしよう

日本歴史地名大系 「広瀬庄」の解説

広瀬庄
ひろせのしよう

弘福ぐふく寺領荘園である。同寺は現高市郡明日香村大字川原かわはらにあり、川原かわら寺ともいう。寛弘三年(一〇〇六)弘福寺(天理図書館文書)によると「天智天皇御施入」田に始まる荘園であるという。天平二〇年(七四八)の弘福寺三綱牒(東寺文書)に「大倭国広瀬郡庄家田□□(考)□□恐地瓦山等事、合水田参拾五町弐段玖拾参歩」とある。前掲寺牒によると、広瀬郡二〇条五里六・七・一八・一九坪、二一条五里一―二四・二六・木戸池内・三一―三三坪、六里四―九・一七・一八坪、二二条四里三五・三六坪、五里一―三・一一―一三坪、瓦山、真野条成相里・池上里にその田畠などがあり、「見作廿二町七段百二歩」となっている。

広瀬庄
ひろせのしよう

金剛勝こんごうしよう院領である。正安四年(一三〇二)室町院御領目録(八代恒治氏蔵)の「金剛勝院領」のうちに「 (院御分)(大和)国広瀬庄」とある。金剛勝院(京都市東山区)は鳥羽天皇皇后美福門院藤原得子の祈願寺であり、広瀬庄は同院の寄進になる荘園と考えられる。その本家職は金剛勝院以後、鎌倉期には室町院(後堀河天皇皇女)に相承されている。

右のほか、「春日社記録」中臣祐重記の養和二年(一一八二)正月六日条に「広瀬御供」とあり、また「春日社記録」中臣祐定記の寛喜四年(一二三二)正月八日条に「広瀬新庄御節供」とみえる。

広瀬庄
ひろせのしよう

入間いるま郡にあった平安時代の庄園。「和名抄」所載の入間郡広瀬郷の地に成立した庄園とすると、入間川左岸の現狭山市上広瀬・下広瀬(中世・近世には高麗郡)辺りに比定される。貞観一四年(八七二)三月九日の貞観寺田地目録帳(仁和寺文書)には「武蔵国庄三処」として高麗こま山本やまもと庄や多摩郡弓削ゆげ庄とともに入間郡の広瀬庄があげられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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