広沢原新田(読み)ひろさわはらしんでん

日本歴史地名大系 「広沢原新田」の解説

広沢原新田
ひろさわはらしんでん

新座にいくら郡のほぼ中央に広沢原とよばれる原野が広がっていた。その範囲は東は上新倉かみにいくら村・下新倉村(現和光市)、南は小榑こぐれ(現東京都練馬区)、北は溝沼みぞぬま村に囲まれた約一里四方で、川越街道の両側地域。このうち上新倉村・下新倉村に近い地域は新倉原、膝折ひざおり村に近い地域は膝折原、つじ(現新座市)の丘陵上はうえノ原と称された。江戸時代初めは新座郡域一七ヵ村の秣場であったが、享保年間(一七一六―三六)に幕府代官によって開発が計画され、各村の請負で開発が実施された。同一七年代官筧播磨守の検地を受けて幕府領の広沢原新田が成立。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報