平安名村(読み)へんなむら

日本歴史地名大系 「平安名村」の解説

平安名村
へんなむら

[現在地名]勝連町平安名へんな

南風原へーばる村の南東にあり、北は与那城ゆなぐしく間切与那城ゆなぐしく(現与那城町)、南は中城なかぐすく湾に面する。絵図郷村帳に平安名村とみえる。琉球国高究帳によれば高頭二九四石余、うち田七三石余・畠二二〇石余。里積記には小舎覇おしやは村と併記され、田畑とも中の村位。康熙一二年(一六七三)一〇月二五日に向氏(内間家五代)七世向保祐勝連按司朝睦が平安名を名島として拝領し、続いて同年一二月二六日に平安名地頭職に添え新垣あらかち村、安勢里あせり村・饒辺ぬひん村・屋慶名やきな村・上原いーばる村・宮城なーぐしく(現与那城町)を加領として与えられている(向姓内間家家譜)。嘉慶八年(一八〇三)、当村出身の夫地頭小舎覇親雲上らが指揮して三千八〇〇歩余の水田が開かれた。また当村は元来土地がやせており、天水田が多く、少しの間の旱魃でも水田が乾いて稲も植えられない状況にあった。

平安名村
ぴやうなむら

[現在地名]城辺町保良ぼら

保良ぶら村の東にあった村で、北は新城あらぐすく村、東部・南部は海に臨む。方音ではピャウナ。砂川うるか間切に属した。両島絵図帳に「ひやくな村」と記され、高二一八石余。正保国絵図では「百名ひやくな村」とする。絵図郷村帳では「百名村当時無之」と記す。雍正旧記に蔵元(現平良市)より南東四里二七町三二間、保良村より宿次二二町三九間とあるが、村番所は記されていない。正保国絵図には狩俣かまた間切より百名村まで九里三町とあり、親道と考えられる朱線路が記される。また南に突き出す百名崎が描かれる。両島絵図帳によれば、「ひやくな崎之はなれおかみ干瀬」が広がるが、広さ一町・深さ一五尋の船通口があり、強風の折には通船させることもあると記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報