平出村(読み)ひらいでむら

日本歴史地名大系 「平出村」の解説

平出村
ひらいでむら

[現在地名]辰野町大字平出

天竜川の左岸、辰野村の対岸にあたり、北から東は諏訪郡に接する。北部山麓出清水いでのしみずという湧水があり、平出の地名の起りとされている。「延喜式」に信濃一六牧の一つとして「平井手牧」とあるのが初見。また「吾妻鏡」の治承四年(一一八〇)九月一〇日の条に甲斐の武田・一条氏らによって宮所みやどころ郷とともに平出郷が諏訪社上社に寄進されている。次いで、文治二年(一一八六)三月一二日条の乃貢未済庄々注文として「平井弖」とある。平出郷は平出牧を含んだまま諏訪上社領となり荘園化したと考えられる。

諏訪社上社の伊那廻と称するたたえの神事は、神使の巡行によって行われたが、まず第一に平出で行われたことが「諏方大明神画詞」に記されている。

平出村
ひらいでむら

[現在地名]牟礼村大字平出

現牟礼村の東南部。東は北国脇往還と山野をもって神代かじろ村・中尾新田なかおしんでん村・いし(以上現豊野町)、南はよし(現長野市)、西は袖野山そでのやま村、北は神代村枝郷福井ふくい新田村・牟礼村と接する。もとどり(七四五メートル)が南の村境にそびえ、その東北の山麓を北国脇往還が石・神代両村境に沿って通じ、また東浦ひがしうら地籍で北国脇往還の脇道(神代道・松代道)を分岐し、集落は街道に沿っている。

室町時代、髻山麓(字上平出)願生がんしよう寺が設けられた。

平出村
ひらいでむら

[現在地名]白沢村平出

上古語父かみここぶ村・高平たかひら村の南、片品かたしな川右岸に位置し、東方尾合おあい村との境を片品川の支流白沢川が流れる。尾合村およびその東の岩室いわむろ村を合せた三村をした郷とよび、武尊ほたか颪の北風から守られた土地である。片品川対岸は勢多せた生越おごせ(現昭和村)。地名は中巌円月の「東海一集」に「平出村居、奉仏弟子藤公広」とみえる。寛文郷帳によると田方一一石余・畑方一五六石余。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高七五八石余。宝永元年(一七〇四)の沼田領村々石高書上では高二三八石余、反別は田二町九反余・畑五八町三反余。生越村内に上久屋かみくや(現沼田市)とともに権利をもつ出作地・秣場(三二町余)があったが、その地をめぐってたびたび相論があった。

平出村
ひらいでむら

[現在地名]塩尻市大字宗賀 平出

比叡ひえの山の北、塩尻市街地の南西にあたり、中山道の南側にある村。北は桔梗ききようはらに接する。

文献上の初出は長享二年(一四八八)春秋之宮造宮之次第に平出とみえる。

慶長一九年(一六一四)小笠原秀政申渡状(中村家文書)には秀政により大和小兵衛は平出など一〇ヵ村の代官に任命され、翌年三月には小笠原秀政から高崎までの榑木付出しを命ぜられている(中田家文書)。元禄七年(一六九四)に洗馬・本山両宿の助郷村に指定された。「信府統記」記載の免状高一九七石のうち田方九三石で四割七分、宗賀地区のうちでは最も水田率が高い。

平出村
ひらいでむら

[現在地名]武生市平出町・平出一丁目

府中町の北西に隣接する。福井藩領(府中本多氏知行所)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名と高五二四・〇八四石が記され、正保郷帳によれば田方四一七石余・畠方一〇六石余。東南の府中町続きに枚井手ひらいで神社(祭神波邇夜須毘売命、旧村社)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報