常久村(読み)つねひさむら

日本歴史地名大系 「常久村」の解説

常久村
つねひさむら

[現在地名]府中市若松町わかまつちよう一―四丁目・清水が丘しみずがおか三丁目・天神町てんじんちよう四丁目・浅間町せんげんちよう一丁目・紅葉丘もみじがおか二丁目・多磨町たまちよう四丁目・押立町おしたてちよう三―四丁目・是政これまさ二丁目・同四丁目・小柳町こやなぎちよう二丁目・同四―六丁目、稲城いなぎ市押立

人見ひとみ村の南にあり、西は是政村。東西に通る甲州道中に沿って集落が形成される。もとは多摩川沿いにあったが洪水のため流失、万治年間(一六五八―六一)に段丘上の現在地に移動したが、そこはもとは是政村の内であったといわれる(風土記稿)

常久村
つねひさむら

[現在地名]武生市常久町・みなみ一丁目

府中町の南、北陸街道沿いの松森まつもり村から少し西に入った所にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図は「恒久村」として高二二一・八四石を記し、正保郷帳以降、常久村となる。同帳によると田方二〇九石余・畠方一二石余。福井藩領。文政三年(一八二〇)九月の常久村男女人数指出帳写(吉江家文書)によれば、人数九〇、家数二六(うち高持一〇・雑家五・水呑一〇)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報