市来院(読み)いちきいん

日本歴史地名大系 「市来院」の解説

市来院
いちきいん

中世の院名で、範囲は現在の市来町・東市来町にあたる。本来の読み方は「いちく」である(文永二年六月二日「島津道仏譲状案」島津家文書)薩摩国建久図田帳に「市来院 百五十町」とあり、島津庄寄郡内で、院司(郡司)僧相印、地頭右衛門兵衛尉(島津忠久)となっている。惣地頭職は島津氏本宗家に相伝され、文永二年(一二六五)六月二日に忠時から子の久時へ(前掲島津道仏譲状案)、文保二年(一三一八)三月一五日、久時の子忠宗から子の貞久へ(「島津道義譲状」島津家文書)、元徳三年(一三三一)八月九日に貞久から子の宗久へ譲られた(「島津道鑑譲状」同文書)。建久八年(一一九七)一二月二四日の島津忠久内裏大番役支配注文(旧記雑録)に市来郡郡司がみえるが、これは前掲図田帳の僧相印と思われ、大番役を勤めているから鎌倉幕府御家人である。郡司市来氏は本来大蔵姓であったが、鎌倉時代前期、市来家房(僧相印か)に嗣子がなく、惟宗姓の国分友成の子政家が郡司家を継いで惟宗姓となった(「河上氏系図」河上文書など)。寛元二年(一二四四)八月一八日、政家(千与熊丸)養祖母の譲状に任せて、市来院郡司職を継ぐことを承認されている(「将軍袖判下文」旧記雑録)。正和三年(一三一四)八月五日の鎮西御教書(同書)によれば、政家の子家貞(時家)庶子で市来院内河上かわかみ(現市来町)名主であった橋口(河上)家忠を年貢に関して訴えている。また同年一一月二七日の鎮西下知状(島津家文書)によれば伊作いざく(現吹上町)住人が市来院住人志布志入道から一艘の小船を借用したが、破損したため同入道の後家尼が船代として三人を質にとった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報