崎田村(読み)さきだむら

日本歴史地名大系 「崎田村」の解説

崎田村
さきだむら

[現在地名]八千穂村大字穂積ほつみ(天神町を除く)、南牧村小海大字東馬流ひがしまながし

東は山嶺をもって上海瀬かみかいぜ(現佐久町)小海こうみ(現小海町)、西は樋之口ひのくち村及び千曲川をもって本間ほんま村・宮之下村・本間川村・馬流村(現小海町)、北は下海瀬したかいぜ(現佐久町)、南は小海村(現小海町)に接する。

集落は崎田本郷と枝郷の穴原あなばら高岩たかいわ高岩組馬流(東馬流ともいう。現小海町)・穴原組筆岩ふでいわが南北約四キロの間に点在している。崎田本郷は千曲川の沖積地から比高約五〇メートルの河岸段丘上に位置し、穴原・筆岩はその南方の台地状の山腹傾斜地(八八〇―九八〇メートル)の高位置に、高岩・馬流は下段の狭長な千曲川沖積地(八一〇―八五〇メートル)に立地している。

嘉暦四年(一三二九)鎌倉幕府が諏訪社上社の五月会御射山みさやま頭役などの結番を定めた際(「鎌倉幕府下知状案」守矢文書)に、六番五月会分として「右頭、大井庄内」と記された郷村の中に「崎田」とある。永禄三年(一五六〇)西上州に兵を進めようとしていた武田信玄は、崎田七〇貫の地を上州南牧谷の市川衆の一人、市川右近助に与えた(「武田家感状写」市川育英氏蔵)

崎田本郷と枝郷穴原の中間に突き出した山地蟻城ありじようとよぶ山城があり、南・西・北三方の尾根突端堀切を設ける。佐久平までも視野におさめ、脚下に千曲川の谷をふまえ、野辺山原余地よじ峠を結ぶ甲州―上州の交通路を扼するものと考えられるが、城に関する記録や伝承は伝わっていない。

崎田村
さきだむら

[現在地名]串間市崎田

本城ほんじよう村の南に位置し、志布志しぶし湾に面する。北端の本城川河口に崎田湊がある。江戸時代は本城仮屋ほんじようかりや郷に所属。日向国覚書によると高六一三石余。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領地覚(隈江家記)、正徳元年(一七一一)の高鍋藩領郷村高辻帳(石井家文書)でも同高。寛永一四年(一六三七)二月、当村百姓善四郎は「イタリヤ国伴天連」を召捕り、褒美をもらっている(本藩実録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報