岩殿村(読み)いわどのむら

日本歴史地名大系 「岩殿村」の解説

岩殿村
いわどのむら

[現在地名]東松山市岩殿・松風台まつかぜだいなど

葛袋くずぶくろ村の南西に位置し、村域は岩殿丘陵の中心をなす、なだらかな岩殿山(最高点は物見山一三五・六メートル)の北麓から西麓にかけてを占める。物見ものみ山を水源とする九十九つくも(越辺川支流)が村域を南東流する。松山領に属し(風土記稿)北西神戸ごうど村、西は本宿もとじゆく村。物見山の北方中腹には坂東三十三所の一〇番札所である正法しようぼう(岩殿観音・岩殿寺)があり、集落は同寺の門前として発達した。西部には小名望月もちづきがある。正法寺蔵の元亨二年(一三二二)銘の梵鐘に「武州比企郡 岩殿寺」とみえる。康安元年(一三六一)八月二六日、「ひきのいわとの」の黒河正願が紀州熊野那智山御師村松盛甚に添状(熊野那智大社文書)を送っている。

貞治二年(一三六三)下野の芳賀禅可(高名)は鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、基氏軍と禅可の子高貞・高家の軍勢苦林にがばやし(現毛呂山町)および岩殿山で戦っている(「鎌倉大日記」生田繁氏蔵、「源威集」東京大学史料編纂所影写本など)。同年一〇月日の中村貞行軍忠状写(集古文書)に「去八月廿六日、武州岩(殿カ)山御合戦」、同年一一月日の畑野六郎左衛門入道常全軍忠状(畑野静司氏所蔵文書)には「同卅(日カ)石殿山属当御手候」などとみえ、八月二六日から始まった岩殿山合戦は三〇日まで続き、基氏方の勝利に終わった。

岩殿村
いわとのむら

[現在地名]大月市賑岡町岩殿にぎおかまちいわどの

強瀬こわぜ村の北、岩殿山の東麓に位置し、東側を桂川支流の葛野かずの川が南流する。古くは強瀬村と北西にある畑倉はたぐら村とともに一村を形成していたが、寛文九年(一六六九)検地の際に三ヵ村に分れたという(甲斐国志)。同年の郡内領高辻帳に村名がみえ、高六九石余、うち田九石余・畑六〇石余、漆桶代一斗(大豆)、宿役米四升二合。文化(一八〇四―一八)初年の家数四五・人数二〇一、馬一八(甲斐国志)助郷四日市場よつかいちば(現都留市)下和田しもわだ村とともに上花咲かみはなさき・下花咲の両宿へ出役(天野新平家文書)

岩殿村
いわどのむら

[現在地名]南伊豆町岩殿

下小野しもおの村の東、青野あおの川中流域に位置する。伊浜いはま普照ふしよう寺に伝わる大般若経巻三二〇の奥書には至徳元年(一三八四)一〇月一七日に「岩殿」において書写されたとみえ、巻四三二・巻四三四にも岩殿住人が書写したとある。天正一八年(一五九〇)と推定される三月二五日、「伊豆ケ崎」の「巌殿」で北条方と豊臣方との合戦があり、敵一人を討取った小関加兵衛が北条氏直より賞されている(三月二九日「北条氏直感状」小関文書)。巌殿は岩殿のことと思われ伊豆ヶ崎は伊豆半島南端部分をさしたものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報