岩城村(読み)いわぎむら

日本歴史地名大系 「岩城村」の解説

岩城村
いわぎむら

[現在地名]岩城村

岩城島の初見は、保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)である。その中に、石清水八幡宮領の伊予国分として「石城島 生名島 佐島 味酒郷」が記されている。鎌倉末期の頃には、本島に、いわゆる悪党とよばれる在地武士が蟠居していたらしく、延慶(一三〇八―一一)頃のものと推定される弓削島庄雑掌法橋栄実注進状(東寺百合文書)に、弓削島ゆげのしま庄の地頭代が、近くの岩木島(岩城島)と高向禰島(高根島、現広島県)の悪党を率いて弓削島の百姓家に押し入り、乱妨狼藉したと記されている。室町初期のものと思われる村上図書申状(東寺百合文書)に「生口嶋地下者共ハ、去年皆対治候了、石城嶋公文者関立を相語候て、彼城籠て候を、今月廿四日、公文一類無残打殺候て、海賊一向罷籠候之際、弥此辺事無正体候」とあり、岩城島の公文が海賊衆村上氏の攻撃をうけて壊滅させられている。当時、この付近の島々が村上氏の支配下に組み込まれつつあったものと思われる。天正一三年(一五八五)一〇月、俊成左京進は、村上武吉から岩城島一貫二〇〇文等を知行地として宛行われているが、戦国末期岩城島は能島村上氏の支配するところであった(俊成文書)。なお室町・戦国期頃のものと推定される伊予国岩城島小泉一方分等天役浜数注文(極楽寺文書)から、部分的ではあるが、中世末期の岩城島の名や塩浜の存在形態を知りうる。

<資料は省略されています>

当時、岩城島の名は、名田と散田とに分れ、塩浜は名に結ばれ、名田経営の一環として製塩が行われていたものと思われる。

岩城村
いわぎむら

面積:一〇・七九平方キロ

芸予げいよ諸島のほぼ中央、愛媛県の東北端で広島県境に位置し、岩城島(八・七九平方キロ)赤穂根あかほね(二・〇六平方キロ)津波つば(〇・四五平方キロ)の三島からなっている。岩城島(岩城本島)は中央に積善せきぜん(三六九・八メートル)を有し、急傾斜で海岸に至り、平地は少ない。丘陵は果樹園になっている。赤穂根島・津波島はともに無人島である。

岩城村
いわきむら

[現在地名]秋田市下新城岩城しもしんじよういわき

丘陵北麓の塊村で、集落の中央を新城川が流れる。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に九一七石七升八合の村として出る。

梅津政景日記」によれば元和六年(一六二〇)一二月二一日佐竹義宣に、岩城村の百姓が目安を差し出した。慶長一〇年代の中竿検地は先竿検地より厳しかったらしく、先竿検地で二七六石九斗六升五合、免六ツ八分だったが、中竿検地では免六ツと引き下げられたものの高は八一四石と激増、年貢が支払えず、知行所から延べ二千人にも及ぶ催促人を付けられたとの内容であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報