山辺庄(読み)やまのべのしよう

日本歴史地名大系 「山辺庄」の解説

山辺庄
やまのべのしよう

山形盆地の南半分の西側の出羽丘陵一帯とその裾野の平野部、現在の山辺町・中山なかやま町にわたる庄園で、北は最上川、東は川、西は出羽丘陵に画され、南は大曾禰おおそね(現山形市)と接していたと思われる。山辺町の南部や中山町の西部には条里遺構が確認され、古くから開発の進んだ地であった。庄名は古代の最上郡山辺郷(和名抄)の郷名を継承したと思われる。

貞治三年(一三六四)八月一〇日の斯波兼頼預置状(倉持文書)に「出羽国山辺庄」とみえ、庄内の「塔見」三分の一が倉持兵庫助入道に勲功の賞として預けられている。倉持氏は陸奥国賀美かみ(現宮城県加美郡)にも所領をもつ足利氏譜代の家臣で、兼頼は奥州探題斯波家兼の次男で延文元年(一三五六)山形盆地に入部した。この史料は現存する兼頼発給文書の唯一のものである。なお「塔見」の塔とは庄内にあった安国あんこく寺の塔を意味すると思われる。永仁四年(一二九六)八月二四日「最上郡小鶴郷安養寺」で経典の書写が行われている(「大乗大方等日蔵経写経奥書」陸前新宮寺文殊堂文書)

山辺庄
やまべのしよう

現在の山辺付近にあった庄園。山間部に位置し、応徳元年(一〇八四)一二月一九日の摂津国採銅所預等連署解案(壬生家文書)に、頭弁藤原通俊の家領としてみえるのが初見。これによると能勢郡採銅所の預らは、従来、付近の山から松明の木をとって銅の穴掘りをしていたところ、「頭弁殿御領山辺」の山口・枳根きね山口などに山守を置いて制止するようになったので採掘できなくなったと行事所に訴えている。領主藤原通俊はのち治部卿になり、承徳三年(一〇九九)娘に山城国久世くせ庄・摂津国倉殿くらどの(現吹田市)・同杭瀬くいせ(現兵庫県尼崎市)などを譲ったが(同年四月二二日「治部卿藤原通俊所領処分状案」同文書)、これらの所領はその娘の子権中納言藤原経定から久寿三年(一一五六)に頼定へ(同年正月一七日「権中納言藤原経定譲状案」同文書)、治承五年(一一八一)には参議頼定から子息頼房へと相伝されていった(同年三月一五日「参議藤原頼定譲状案」同文書)

山辺庄
やまべのしよう

弘福ぐふく寺領荘園である。寛弘三年(一〇〇六)の大和国弘福寺牒(天理図書館蔵文書)に「山辺庄 山辺郡、見作廿七町八段廿八歩」とみえる。山辺庄の所在する条里(括弧内は坪数)は同牒によると、九条五里(六)・六里(二四)である。この条里によると、同庄の所在は現川原城かわはらじよう町に比定される。ほぼ方形の一円的領域といえる。また同牒では「件庄々田為天智天皇御施入、経数代也、随則未有収公之妨、而当時国検田使背旧例、始以収公(下略)」とあり、これによると天智天皇勅施入田に始まる荘園というが、官省符荘であったものか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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