朝日日本歴史人物事典 「山下源太郎」の解説
山下源太郎
生年:文久3.7.13(1863.8.26)
海軍軍人。米沢藩士山下新左衛門の次男。米沢市生まれ。藩校興譲館,米沢中学を経て明治16(1883)年海軍兵学校卒。少尉に任官後,主に砲術畑を歩き,日清戦争(1894~95)時には大尉。軍艦「金剛」砲術長として旅順口および威海衛の攻撃に,また,軍艦「秋津洲」砲術長として台湾制圧戦に参加した。明治33(1900)年の義和団事変に際しては,陸戦隊指揮官として天津城を攻撃した。その後,海軍軍令部第1局局員,軍令部参謀として対ロシア海軍戦略の策定に従事,主戦論を唱える。日露戦争(1904~05)では大本営参謀(作戦班長)。日本海海戦では,ロシアのバルチック艦隊の対馬海峡通過を確信,日本を戦勝に導く要因を作った。その後,第1次世界大戦参戦時には軍令部次長。佐世保鎮守府長官などを経て,大正7(1918)年大将に進む。同年,第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。ワシントン会議を挟んで大正9年末から同14年4月まで軍令部長として八八艦隊計画の達成と軍縮の処理に従事した。軍事参議官を経て昭和3(1928)年後備役。<参考文献>松岡正男編『海軍大将山下源太郎伝』
(小池聖一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報