屋敷村(読み)やしきむら

日本歴史地名大系 「屋敷村」の解説

屋敷村
やしきむら

[現在地名]会津高田町杉屋すぎや

赤沢あかさわ川上流にあり、北は上戸原じようどはら村、西は杉内すぎのうち村。天正(一五七三―九二)頃蘆名氏家臣の松本氏が船岡ふなおか館に住し、その家臣も住したための村名という。本村の南一町五〇間に端村天神堂てんじんどうがある。周辺の村々は寛永二〇年(一六四三)南山御蔵入領とされたが、当村は会津藩領として幕末に至る。寛文五年(一六六五)の「高田組郷村万改帳」では高一七二石余、免四ツ九分九厘余、本村の家数一二、竈一四、男三七・女三三、馬二・牛三、天神堂の家数一一、竈一六、男四三・女三二、馬四・牛一。

屋敷村
やしきむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 奥村下おくむらしも

十根川とねがわ村の北、南流する奥村川左岸に位置する。屋鋪とも記す。下福良掛三九ヵ村の一つで、十根川組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として屋鋪とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑六畝(高八升余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。文政一一年(一八二八)の下福良村組焼畑見取場検地帳(相良家文書)では焼畑四町余・高四石四斗余。天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高四石五斗余。寛延二年(一七四九)の村柄様子書上帳(同文書)では「畑地等有之木立焼畑所も有之所ニ御座候へ共、無精故いつとなく困窮仕申候、是先精ヲ出し相稼申候ハヽ村も繁昌可仕かと奉存候」とある。

屋敷村
やしきむら

[現在地名]西会津町宝坂ほうさか屋敷やしき

白坂しらさか村の南西山間にある。元来は白坂村の端村であったが、明治初期に同村より分離し、一村となった。安永四年(一七七五)には屋敷分地首与惣兵衛が藩手当米の配分をめぐって村民対立、与惣兵衛は次男藤九郎とともに殺傷沙汰を起こし、父子が自害するという事件(与惣兵衛騒動)があった(家世実紀)。このため与惣兵衛長男惣八は越後平堀ひらぼり(現新潟県津川町)へ越百姓とされたが、文化一二年(一八一五)に許されている(佐藤家文書)

屋敷村
やしきむら

[現在地名]上石津町西山にしやま

栃谷とちだに村の南にある。村名は当地伊勢屋敷があったことにちなむといい、神明神社土岐多良ときたら御厨棟札が納まっていたと伝える(養老郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報