小泉城跡(読み)こいずみじようあと

日本歴史地名大系 「小泉城跡」の解説

小泉城跡
こいずみじようあと

[現在地名]大泉町上小泉 城之内

邑楽台地北西部に位置し、太田・館林熊谷くまがや(現埼玉県熊谷市)へ至る交通の要地を押える。結城合戦に敗死した結城氏朝の弟久朝の子直光が一時甘楽かんら郡富岡郷に隠れ冨岡姓を称したのち、古河公方に属して小泉に移り延徳元年(一四八九)に築いたと伝えられる。永正九年(一五一二)一〇月三〇日、足利政氏は「上野小泉城主冨岡秀光」が簗田刑部大輔を補佐したことに対し感状(冨岡家古文書)を与えている。ただし古海氏の一族が小泉姓を称していたとも伝えるので、冨岡氏による築城以前に在地の小豪族が館を構えていたことも考えられる。いずれにしても現千代田ちよだ町の舞木氏が永享の乱にかかわって没落したのち、その被官の赤井氏が東部の館林方面で台頭したのに対して、結城(小山)氏の者が西部の小泉に入ってきたのであろう。当初は小泉氏の勢力は小さく、城も館程度であったと思われる。

小泉城跡
こいずみじようあと

[現在地名]大和郡山市小泉町

中世小泉氏、近世片桐氏の居館跡。小泉館・小泉城とよばれた。小泉氏は小泉庄の地侍で、貞和六年(一三五〇)三月一三日付の額安寺文書に小泉出雲殿とある。南北争乱期の頃から名をあらわし、大和永享の乱の時、越智党として筒井氏と争った。永正四年(一五〇七)小泉氏は豊田氏・高山氏らとともに奈良官符となり、この頃に筒井氏の傘下に入った。「国民郷士記」に「筒井親族麾下(中略)小和泉添下郡」また「小和泉平城小泉四郎左衛門」とある。

小泉城跡
こいずみじようあと

[現在地名]上田市大字小泉

小泉村の西北西の城山に位置し籏鉾はたほこ山城ともよばれる。小泉城という城名は「高白斎記」天文二二年(一五五三)八月一〇日の項で「八月十二日、室賀・同小泉の所、御判形被下候、小泉の城、破却御祝着の由被仰出候」とあるのが初見である。これは八月四日小県塩田城を陥れた時、信玄がまず行った施政の一つであるが、これによって、室賀氏(小泉の隣郷、室賀を根拠とする土豪)と、この小泉を本拠とする小泉氏は所領安堵されたこと、ただし、小泉城の破却に対して満足の意を表したことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報