小槻大社(読み)おつきたいしや

日本歴史地名大系 「小槻大社」の解説

小槻大社
おつきたいしや

[現在地名]栗東町下戸山

金勝こんぜ川左岸の緩やかな丘陵上に鎮座祭神息速別おちわけ(於知別命とも)大己貴おおなむち命。旧郷社。小杖社おづえのやしろとも称する。創立年代は不明だが、当社付近の金勝川両岸に五世紀の首長墓椿山つばきやま古墳下戸山しもとやま古墳などがあり、当社を中心に古墳時代後期の小槻大社古墳群が築かれ、また当社の御旅所のあるおか遺跡栗太くりた郡衙跡と推定されている。天平八年(七三六)八月二六日の内侍司牒(正倉院文書)に「従八位上栗太采女小槻山君広虫」とみえ、采女を貢進していた小槻氏が当地に蟠踞していた。同氏は貞観一五年(八七三)には正六位上行左少史兼算博士の今雄ほかが京都に本拠を移し(「三代実録」同年一二月二日条)、以後中央官人の官務家となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報