小中野村(読み)こなかのむら

日本歴史地名大系 「小中野村」の解説

小中野村
こなかのむら

[現在地名]八戸市小中野町・江陽こうよう一―五丁目・小中野一丁目・同四―五丁目、同三丁目・同七―八丁目の大半、同六丁目の半分、諏訪すわ一丁目の一部

八戸城下の北東新井田にいだ川と馬淵まべち川の河口に挟まれた沖積低地に位置する。村の中央を東西にみなと街道が通り、東は湊村、西は柏崎かしわざき村・沼館ぬまだて村、南は類家るいけ村、北は馬淵川を隔てて河原木かわらぎ村に接する。

元和四年(一六一八)知行目録に「三百拾九石五斗五升八合 小中野」「三百七拾四石壱斗六升七合 あら屋、沼たて、小中野」とあり、藩政当初は盛岡藩に属し、根城南部氏に給されていた。村内の正部田しようぶたは前年の南部利直下知状(南部家文書)に「一しやうふ田」とある。

小中野村
こなかのむら

[現在地名]あきる野市小中野

あき川左岸、秋川が西の山地より東の秋留あきる台地へと流れを進める谷口にあたる。村の東および北は五日市村と接する。五日市村から西の戸倉とくら村へと続く檜原ひのはら道が村の中央を通る。はじめ中野と称していた。天文二〇年(一五五一)九月六日の広徳寺領書立(広徳寺文書)に「中野」とあり、大石道俊が広徳こうとく寺領として安堵している。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)の宛所の一つに中野がみえる。田園簿に中野村とみえ、田一石余・畑七五石余で幕府領、ほかに紙舟役永一四三文。寛文七年(一六六七)検地帳(森田家文書)では田三反余・畑一二町七反余・屋敷六反余、名請人四六(うち屋敷持二八)のうち所持反別一―四反の者二〇。

小中野村
こなかのむら

[現在地名]森田村上相野かみあいの

田圃を隔てて北は栄田ゆうた村の支村笹木ささき、東は桑野木田くわのきだ(現柏村)、南は廻堰まわりぜき村の支村田ノ尻たのしり(現北津軽郡鶴田町)、西は玉川たまかわ(現鶴田町)

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がみえ、享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。享保一六年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて一九町一反九畝一四歩、村高は一三〇・六七三石であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報