富長村(読み)とみながむら

日本歴史地名大系 「富長村」の解説

富長村
とみながむら

[現在地名]名和町富長

御来屋みくりや村の南西で、北は日本海に臨み、名和川下流左岸の台地上に位置する。伯耆街道に沿い、地内には一里塚も設けられた。留長とも記される。「古本伯耆巻」には、元弘三年(一三三三)後醍醐天皇を追ってきた隠岐国守護佐々木清高軍の動静を記して「奈和庄館十町計ヲ隔テ富永ト云所ニテ見バ、奈和庄ノ城ニ火懸リケリ」、「伯耆之巻」には「富永と云所迄寄りたりければ」などとある。藩政期の拝領高四三四石余。給人所付帳によると神戸氏の給地。竹運上銀一八匁四分余が課せられていた(藩史)。延享三年(一七四六)の汗入郡御通筋村々厘付帳(門脇家文書)によれば、高四七三石余、新開高七〇石余、土免四ツ三歩・請免三ツ九歩四厘。

富長村
とみながむら

[現在地名]古川市富永とみなが

江合えあい川北方の水田地帯の一角にある。遠田とおだ郡に属し、北は長岡針ながおかはり村・休塚やすみづか村、南は淵尻ふちじり村・上埣かみぞね村、西の江合川対岸は志田郡江合村に接する。古代から中世には長岡ながおか郡に属していたため富長と書いたともいわれる(遠田郡誌)正保郷帳に田九一貫八五九文・畑六貫六六四文とあり、ほかに同所新田六〇〇文がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報