富貴村(読み)ふきむら

日本歴史地名大系 「富貴村」の解説

富貴村
ふきむら

[現在地名]武豊町富貴・市場いちば新田しんでん

東は海に面し、北は東大高ひがしおおだか村、南は布土ふつと(現美浜町)、西は市原いちはら村に入組んで接する。江戸期までは冨とし、それ以降は富を使用した。字山崎やまざきに後期古墳の小円墳三基がある。「尾陽雑記」に富貴城について次の記事がある。

<資料は省略されています>

中世末の富貴城の城下として東大高・市原・富貴とその枝郷市場とが密接な結びつきをもっていたことを物語っている。また同書所収の古城跡図によると、東門の西、現在の白山はくさん社が本丸で、続いて西に二の丸、続いて今の八幡宮の森の所に三の丸が位置し、惣構は三四丁としている。二の丸は「今円光坊とて天台宗の寺有」とあり、現在の円観えんかん寺の位置にあったことを示している。

富貴村
ふきむら

[現在地名]高野東富貴ひがしふき西富貴にしふき

筒香つつが村の北、防城峯ぼうじようがみね七霞ななかすみ山の間の谷間の小盆地に位置する。北と東は大和国に接し、西は谷奥深たにおぶか(現橋本市)山地である。「続風土記」は「天野の祝文に、宇智郡布々支丹生とある即是地ならん」といい、「此地二国の堺にて此荘大和の方に突出たれは、古は宇智郡に属して大和の地なりしなるへし」と記している。また同書は村内名迫家蔵の元徳年間(一三二九―三一)の文書に「伊都郡蕗津々賀荘」とみえる「蕗」を、当村の古名とする。

古くからの高野山領で天正一九年(一五九一)一〇月日付の高野山寺領注文(勧学院文書)には「ふき・ひかしふき・にしふき」として七一七・八四石が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報