宮内庄(読み)みやうちのしよう

日本歴史地名大系 「宮内庄」の解説

宮内庄
みやうちのしよう

現在井川淵いがわぶち町にある藤崎ふじさき八旛宮は、明治一一年(一八七八)まで、熊本城の西、現在の藤崎台野球場付近にあった。宮内庄は、藤崎台から近世宮内みやうち(現島崎一―二丁目など)にかけて広がっていた藤崎宮の境内郷的所領を中心に、飽田あきた郡内にあった同宮領を総括的に示す呼称である。文明八年(一四七六)と推定される六月二日の肥後国守護菊池重朝書状(藤崎八幡宮文書)によれば、藤崎宮造営の甍合・遷宮の祝儀を、宮内庄の給人に催促すべきことを出田山城守に指示している。

宮内庄
みやうちのしよう

御手洗みたらい川流域の現宮内・地御前じごぜん一帯の地に比定される。仁治三年(一二四二)二月二五日付の伊都岐島社領安芸国宮内荘預所代請文(巻子本厳島文書)に「一宮神領宮内庄」とあり、鎌倉時代は一宮(厳島神社)の神領であった。立荘の経過は不詳。同年二月日付の安芸国安摩荘内衣田島牒案(同文書)に「宮内政所」の名がみえ、厳島神社の社務を総掌する政所(宮政所)もこの地に置かれていた。

荘域は貞和三年(一三四七)九月一八日付の厳島社神主袖判重教奉書(野坂文書)に「宮内三反同所二反赤崎以上伍(反カ)」とあり、地御前から赤崎あかさき(現大野町)付近にまで及ぶと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報