藤崎庄(読み)ふじさきのしよう

日本歴史地名大系 「藤崎庄」の解説

藤崎庄
ふじさきのしよう

一四、五世紀、藤崎宮の社領を総称して藤崎庄とよんだもので、荘園としての実体をもつものではない。地域も飽田あきた郡のみならず山鹿やまが郡など他郡にまで分散していたと思われる。史料上の初見は、文和二年(一三五三)足利尊氏から早岐六郎蔵人英政が、本知行分として、六箇ろつか庄や神蔵かみくら庄の所職・所領とともに、「藤崎庄内いし村地頭職」を安堵されたことである(同年一〇月二一日「足利尊氏御教書案」詫摩文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報