宗岡村(読み)むねおかむら

日本歴史地名大系 「宗岡村」の解説

宗岡村
むねおかむら

[現在地名]志木市宗岡・上宗岡かみむねおか一―五丁目・中宗岡なかむねおか一―五丁目・下宗岡しもむねおか一―四丁目

たて村のうち引又ひきまた町の東にあり、西境を新河岸川、東境荒川南東流する。入間いるま郡に属し、南は新座にいくら内間木うちまぎ村・宮戸みやど(現朝霞市)、北は下南畑しもなんばた(現富士見市)。古くは鎌倉と奥州を結ぶ道筋にあたっていたとされ、この古道が東西に通る(風土記稿)。奥州へ至る道の一里塚(榎と道標)が中宗岡に現存する。寛正四年(一四六三)四月一五日の堀越公方家奉行人連署奉書(鹿王院文書)に「武州宗岡郷」とみえ、堀越公方の御料所であった。同奉書によれば、長田弥九郎清仲が宗岡郷内仙波対馬守分に入部しようとしたところ、それを妨げる違乱の族がいたため、堀越公方足利政知は赤塚あかつか(現東京都板橋区)の鹿王院雑掌に対し清仲の代官に合力することを命じている。文明一八年(一四八六)相模国から武蔵国に入った聖護院道興はこいくぼ(現東京都国分寺市)を経て当地に至り、「むねをかといへる所をとをり侍けるに、夕の煙を見て」と記し、「夕けふりあらそふ暮を見せてけりわが家々のむね岡の宿」と詠んでいる(廻国雑記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報