安田郷(読み)やすだごう

日本歴史地名大系 「安田郷」の解説

安田郷
やすだごう

安田庄を構成する五ヵ郷の一つ。現なか町中安田の稲荷神社を産土神とする東安田・中安田・西安田地域に比定される。正和五年(一三一六)七月二七日の一音院領目録(九条家文書、以下断りのないものは同文書)に安田郷がみえ、故北政所忌日月忌料・南殿万歳以後忌日月忌料として年貢のうち各一千七〇〇疋(一七貫文)、預所得分四〇石(うち二〇貫預所役公事料)と記す。一音院は九条道家が法性ほつしよう(跡地は現京都市東山区)内に建立した寺院で、安田郷の年貢のかなりの部分が寄進されていた。当郷の公文は後藤氏で正和四年三月一八日に基任から頼任に(「後藤基任譲状并安堵外題」後藤文書)、文保元年(一三一七)五月二六日頼任から基経に譲られている(「後藤頼任譲状并安堵外題」同文書)

安田郷
やすだごう

山梨郡八幡やわた庄内の郷名。現塩山市竹森たけもりの野尻倹之助氏所蔵の応安二年(一三六九)五月一一日の大般若経巻二三五奥書に「山梨ママ八幡庄安田郷下井尻村延命禅寺」とある。これまで安田郷の存在は知られていなかったが、平成五年(一九九三)この大般若経発見により初めて確認された。安田義定の本拠とみられる。義定は源義清の四男で、平家討伐の際に甲斐源氏惣領武田信義と並んで活躍、遠江守護・遠江守になるなど勢力を誇ったが、建久五年(一一九四)源頼朝により謀殺された。

安田郷
やすだごう

和名抄」高山寺本・東急本ともに「安田」と記し、東急本は「也須多」と訓ずる。「土佐幽考」は「在田野村之西」とのみ記すが、「日本地理志料」は「盖亘安田・唐ノ浜・下山・東ノ島・西ノ島・間下・内京坊・正弘・別所・舟倉・仁井田・馬路ノ諸邑、其故区也」とする。これは現安田町と安芸市の一部および馬路うまじ村馬路にあたる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報