安政五ヵ国条約(読み)あんせいごかこくじょうやく

改訂新版 世界大百科事典 「安政五ヵ国条約」の意味・わかりやすい解説

安政五ヵ国条約 (あんせいごかこくじょうやく)

1858年(安政5),幕府が,アメリカ,オランダロシア,イギリス,フランスの5ヵ国と結んだ修好通商条約。58年7月29日(安政5年6月19日),神奈川でアメリカ総領事ハリスと幕府の全権井上清直・岩瀬忠震(ただなり)とが調印した日米条約(日米修好通商条約)を最初として,日蘭条約は8月18日(7月10日),日露条約は8月19日(7月11日),日英条約は8月26日(7月18日),日仏条約は10月9日(9月3日)に調印がおこなわれた。この一連の条約の締結により,鎖国体制を堅持していた日本は,世界資本主義の市場の一環に組みこまれることになった。これらの条約は勅許を得ずに調印されたので,安政仮条約と総称することもある。

 条約の個条数は国ごとに異なるが,共通の主な内容は次のとおりである。(1)相互に首都に公使を,開港場に領事を置く。(2)神奈川(横浜),長崎,箱館の3港を59年7月4日(安政6年6月5日),新潟を60年1月1日,兵庫を63年1月1日から開港する。開港場では外国人の居留を認める。(3)江戸を62年1月1日,大坂を63年1月1日から開市する。両地では,商売をおこなう間だけ外国人が逗留することを認める。(4)日本人と外国人とは,役人干渉を受けることなく自由に品物の売買ができる。(5)関税率は日本と外国とが協定し,条約で定める。(6)外国の貨幣は,日本貨幣と同種同量で通用する。(7)日本で罪を犯した外国人は領事の審理を受け有罪の場合は外国の法律でもって領事が処罰する。(8)条約を締結している国の一つが,日本から新たな権利を獲得したときは,これは直ちに条約締結国のすべてに適用される。

 (5)(7)(8)の関税率の協定制度,領事裁判権,片務的な最恵国待遇の3条項は,同年,アロー戦争(第2次アヘン戦争)の敗北によって清がロシア,アメリカ,イギリス,フランスの4ヵ国との間に結んだ天津条約の中にも盛りこまれているもので,不平等条約の根幹をなす条項である。明治政府の条約改正の努力によって,この3条項が撤廃され,対等の条約が施行されたのは99年のことであった。条約にしたがって,1859年7月から5ヵ国と貿易が開始された。しかし,貿易にともなって物価騰貴おこり,また尊王攘夷派の攘夷運動や幕政批判の活動が激しくなったので,幕府は貿易の抑制をはかった。まず60年5月(万延1年閏3月)に,雑穀,水油,蠟,呉服,生糸を生産地から横浜へ直送することを禁じ,江戸問屋経由を命じた(五品江戸廻令)。62年には,外国奉行竹内保徳らをヨーロッパに派遣し,兵庫,新潟の開港と江戸,大坂の開市の期日を,68年まで延期することについての了解を各国からとりつけた。さらに63年からは,アメリカとオランダに対し横浜鎖港の交渉を開始し,64年には外国奉行池田長発らをフランスに送って,横浜鎖港の合意を得ようとしたが,失敗に終わった。このため,アメリカ,イギリス,フランス,オランダの4ヵ国は,日本に条約を厳守させるためには,武力の発動もやむをえないと判断した。4ヵ国の艦隊は,64年9月(元治1年8月),攘夷派の拠点である長州藩の下関を攻撃し,65年11月には大坂湾に集結して,条約勅許が実現するよう朝廷と幕府とに圧力をかけた。この結果,65年11月22日(慶応1年10月5日),条約が勅許され,五ヵ国条約は国内においても発効した。
開国
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百科事典マイペディア 「安政五ヵ国条約」の意味・わかりやすい解説

安政五ヵ国条約【あんせいごかこくじょうやく】

1858年(安政5年),幕府が米国,オランダ,ロシア,英国,フランスの5ヵ国と結んだ修好通商条約。日米条約(日米修好通商条約)を皮切りにオランダ,ロシア,英,フランスと順次締結。鎖国体制を堅持していた日本は,資本主義世界市場の一環に組みこまれた。一連の条約は勅許を得ずに調印されたので(条約勅許問題),安政仮条約ともいう。各条約は自由貿易を骨子として開港を規定,関税率協定制度,領事裁判権,片務的最恵国待遇の3条項は清がロシア,米国,英国,フランスと結んだ天津条約にも盛り込まれた不平等なもので,のちの条約改正まで撤廃されなかった。翌年から貿易が開始されると物価騰貴がおこり,尊攘派による攘夷運動や幕政批判が激しくなった。→開国五品江戸廻令
→関連項目永代借地権神奈川奉行居留地ハリス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安政五ヵ国条約」の意味・わかりやすい解説

安政五ヵ国条約
あんせいごかこくじょうやく

安政仮条約ともいう。安政5 (1858) 年,江戸幕府が,アメリカ,イギリス,フランス,オランダ,ロシアの5ヵ国との間に締結した修好通商条約。ペリー来航後,アメリカ総領事 T.ハリスのきびしい督促と,朝廷を中心とする尊王攘夷運動の圧力との板ばさみになった幕府は苦慮の末,大老井伊直弼の専断をもって,勅許を待たずに調印を断行した。まず,同年6月 19日アメリカとの間で外国奉行井上清直,同岩瀬忠震を全権として,横浜沖の米艦『ポーハタン』号上で調印。次いで同年7月 10日オランダ理事官 J.ドンケル・クルチウス,7月 11日ロシア使節 E.プチャーチン,7月 18日イギリス使節 J.エルギン,9月3日フランス使節 J.グロとの間に,それぞれ同様な修好通商条約が調印された。条約の大要は次のとおりである。 (1) 江戸に駐在代表をおくこと。 (2) 下田,箱館,長崎,新潟,兵庫の5港を開港し,江戸,大坂を開市とし,それぞれ駐在領事をおくこと。 (3) 開港場における外国人の遊歩規程。 (4) 信教の自由を尊重し合うこと。 (5) 輸出,輸入に制限を設けないこと,など。特に,領事裁判権が規定され,関税率の自主的改定権が日本側にないことなどから,この条約は日本の主権を毀損する不平等条約であったといえよう。条約の発効は翌同6年6月5日とされている。この条約締結の結果,尊王攘夷運動が激化し,それが安政の大獄,井伊の暗殺を招くにいたった。慶応1 (65) 年 10月各国公使の圧力のもとに勅許。明治維新後,この条約を改正するため,日本政府は全力をあげたが,その成功は日露戦争後に待たねばならなかった。

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世界大百科事典(旧版)内の安政五ヵ国条約の言及

【開国】より

…この条約は,天皇の勅許を待つということでその調印をひきのばしていた幕府が,第2次アヘン戦争(アロー戦争)で中国(清朝)を屈服させたイギリス,フランスの大艦隊がそのまま日本に転進して新条約の締結をせまるという情報をハリスからうけて,勅許を待たずにあわてて調印にふみきったものであり,ひきつづき幕府は同年中に,オランダ,ロシア,イギリス,フランスとも同様な修好通商条約の締結を余儀なくされた。これらのいわゆる安政五ヵ国条約では,外交関係のみならず締結各国との自由な通商貿易も規定され,ここに日本の開国は最終的に確定したのである。 これらの条約で日本は,まず首都(江戸)に公使を,開港場に領事を駐在させ,彼ら各国外交代表の職務上の国内旅行権を承認した。…

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