安居院庄七(読み)あごいん・しょうしち

朝日日本歴史人物事典 「安居院庄七」の解説

安居院庄七

没年:文久3.8.13(1863.9.25)
生年:寛政1(1789)
江戸後期の報徳運動家,農事指導者。諱は義道,字蘆翁,乾坤斎と号した。相模国大住郡蓑毛村(秦野市)生まれ。家職は大山阿夫利神社の修験者。同郡曾屋村の商家安居院家に入り聟,米相場に失敗して家産を失い,天保13(1842)年二宮尊徳を日光に訪ね,教えを請うたが許されず,立ち聞きをして教義を学んだという。帰国後,米穀の原値売りを始めたが,報徳布教のため弟浅田勇次郎と共に畿内に行き,活動のかたわら農事改良法をおぼえる。伊勢八幡春日三社太々万人講に加わり,弘化4(1847)年,講員勧誘のため赴いた遠江国長上郡下石田村(浜松市)で神谷与平治を中心に村民を集めた下石田社を結社。次いで岡田佐平治らに迎えられ,遠州(静岡県)各地に報徳思想を普及させた。また,深耕,苗代の薄蒔法,正条植えなどの先進農業技術を伝え,現金掛け値なしの報徳店経営をすすめた。<参考文献>鷲山恭平『報徳開拓者安居院義道』

(海野福寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安居院庄七」の解説

安居院庄七 あごいん-しょうしち

1789-1863 江戸時代後期の農政家。
寛政元年生まれ。相模(さがみ)(神奈川県)大山の修験者の子で,商家の養子となる。二宮尊徳のもとで報徳仕法をまなぶ。弘化(こうか)3年から東海地方で報徳社結成の運動をすすめた。文久3年8月13日死去。75歳。名は義道。字(あざな)は蘆翁。号は乾坤斎(けんこんさい)。

安居院庄七 あぐい-しょうしち

あごいん-しょうしち

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