宇治郷(読み)うじごう

日本歴史地名大系 「宇治郷」の解説

宇治郷
うじごう

[現在地名]宇治市宇治〈池森いけもり壱番いちばん宇文字うもじ大谷おおたに蔭山かげやま金井戸かないど玄斉げんさい小桜こざくら御廟ごびよう米坂こめさか里尻さとじり山王さんのう下居しもい蛇塚じやづか善法ぜんぽう天神てんじんとうかわうち弐番にばん野神のがみ半白はんぱく東山ひがしやまじり琵琶びわ妙楽みようらく矢落やおち蓮華れんげ若森わかもり〉・神明しんめい石塚いしづか宮北みやきた宮西みやにし宮東みやひがし〉・羽拍子はびようし町・琵琶台びわだい

宇治川の谷口部をほぼ南から北に通る古北陸道(のちの奈良街道)の渡河点には、大化二年(六四六)に最初の架設をみたという宇治橋がある。その両岸に展開する橋畔集落を中心とし、街道周辺に散在する小集落を併せて宇治郷と称した。

古くは宇治川右岸部分は宇治郡に、左岸の地域は久世郡に属し、「和名抄」刊本には両郡ともに宇治郷の名が記される。近世前期には宇治郡に属する部分を乙方おちかた村とよび、行政的には分離されていたが、中期に至ってしだいに久世郡宇治郷に併合され、乙方村は消滅、郡界も移動した(→乙方村

〔古代〕

宇治橋付近は古北陸道の渡河点として、また近江―山城―大和への木材等を主とする水上運輸の拠点となった宇治津に比定され、繁栄をみたと考えられる。式内社宇治神社・宇治彼方おちかた神社の位置が、いずれも宇治川右岸であること、考古遺跡の分布が同じく右岸に偏していることなどから、九―一〇世紀頃以前は右岸を中心に発展したと考えられる。しかし、源融の別業宇治院が左岸に営まれ、その後藤原道長に買得される。この頃を境として宇治川左岸の発展が始まったことが考えられる。宇治院には、永承七年(一〇五二)道長の子頼通によって仏堂が営まれ、平等院となる。その後、平等院周辺には別業・堂塔が相次いで建立される。

その主要なものは、藤原師実の別業宇治いずみ殿、頼通の娘寛子が造営したいけ殿法定ほうじよう院、藤原忠実・頼長と伝領された小松こまつ殿成楽じようらく院・西にし殿などである。泉殿には白河上皇も御幸(「為房卿記」寛治元年五月二〇日条)、師実の養子忠実もしばしば訪れている(殿暦)。その位置は、のちに湧泉が宇治七名水の一とされたことから、宇治郷西北部の字戸ノ内に比定される。池殿法定院には、長承三年(一一三四)五月一三日に鳥羽上皇の御幸があり(長秋記)、「山城志」は「在宇治池殿町」と記し、平等院西方の市街地に残る町名(現字妙楽)の地に比定している。小松殿成楽院の位置は明らかにしがたいが、近世に常楽・小松の字名があったところから、現在の字戸ノ内の南部に比定する考えがある。

〔中世〕

のちの宇治郷の核となった宇治橋西詰周辺の集落の成立時期は不明であるが、平等院やその他の別業・堂塔の周囲に展開した民家と、渡河点に発生した交通集落との複合により発達したと考えられる。

宇治郷
うじごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本とも訓を欠く。訓は「大日本地名辞書」による。郷域について「摂津志」は宇治野うじの村にあて、「日本地理志料」は福原ふくはら庄にあたる夢野ゆめの石井いしい烏原からすはら荒田あらた(以上現神戸市兵庫区)坂本さかもと中宮なかみや(現同市中央区)の諸邑に比定し、「大日本地名辞書」は相生あいおい町・坂本町(現中央区)多聞たもん町・福原町・たちばな町・みなと町・荒田村(現兵庫区)などの地とする。現中央区の宇治川から現兵庫区の旧湊川(現新開地筋)の流域にあたる。これらの説は以下にみられるように郡界も含めて問題がある。

「行基年譜」によると、行基は天平二年(七三〇)二月一五日摂津国「兎原郡宇治郷」に船息院・尼院を建立したという。

宇治郷
うじごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「伊勢二所太神宮神名秘書」裏書に「風土記云、宇治郷者伊勢国度会郡宇治村五十鈴川上造作宮社奉斎太神、是因以宇治郷為内郷也、今以宇治之二字為郷名」とその由来を伝える。「皇太神宮儀式帳」には「佐古久志呂宇治」「宇治里」、「倭姫命世記」には「佐古久志呂宇遅之国」とみえる。「延喜式」伊勢太神宮には「太神宮三座在度会郡宇治郷五十鈴河上」とある。「伊勢二所太神宮神名秘書」は郷内の皇大神宮摂社として、朝熊あさくま社・大土御祖おおつちみおや社・国津御祖くにつみおや社・神前こうざき(下松下村)津長大水つながおおみず社・大水社を記す。

宇治郷
うじごう

「和名抄」刊本に記されるが高山寺本にはみえない。宇治川対岸(右岸)に宇治郡宇治郷が位置し、古くから宇治橋で結ばれていた。古北陸道(のちの奈良街道)の通る要地であり、宇治津もあった。水陸交通の結節点として対岸宇治郷とともに発展した地域である。

古代の文献や散文・日記類に宇治の地は頻出する。いずれの宇治郷とも決めがたい場合が多いが、考古遺跡の分布が右岸に偏重していること、式内社宇治神社・宇治彼方おちかた神社が右岸にあることなどから、九―一〇世紀以前は右岸宇治郷を中心に発展したと考えられている。

宇治郷
うじごう

「和名抄」に訓はない。郷域について「備陽国誌」や「岡山県通史」などは、旭川下流東岸の現岡山市域に含まれる近世の門田かどた国富くにとみ原尾島はらおしま各村を中心とする地域に比定し、「大日本地名辞書」は吉井川下流西岸部の同じくうちはら村を中心とする地域かとする。

宇治郷
うじごう

「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠くが、刊本郡部は宇治郡を「宇知」と訓じている。

山城国には久世郡にも宇治郷があり(刊本)、この宇治二郷は現宇治市の宇治橋を挟んで位置する。宇治橋は古北陸道(のちの奈良街道)の橋であり、付近には宇治津もあった。水陸交通の結節点として二郷は一体となって発展するが、考古遺跡の分布が右岸に偏重すること、式内社宇治神社・宇治彼方うじおちかた神社が右岸にあることなどから、九―一〇世紀以前は右岸の宇治郡宇治郷が中心であったと考えられている。

宇治郷
うじごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。現岩美いわみ町宇治を遺称地として,蒲生がもう川中流域の同町高山たかやま恩志おんじなどを含む地域に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報