宇治田原郷(読み)うじたわらごう

日本歴史地名大系 「宇治田原郷」の解説

宇治田原郷
うじたわらごう

和名抄」所載の古代の田原郷の地を範囲とすると思われる中・近世の郷。一般には単に田原郷と称される場合が多い。

古代の田原郷内には奥山田御稲田おくやまだみいねだ田原御栗栖たわらみくるすなどの皇室領や、宇治平等院を領家とする禅定ぜんじよう寺領、摂関家領の田原庄などがあったが、中世期の田原郷は皇室領や禅定寺領以外の地を称したものかと思われる。貞永元年(一二三二)八月一八日付の禅定寺文書には「田原七郷」の称もみえる。

中世期のこの地方には地域ごとに宮座が発達していた。史料上では正嘉二年(一二五八)の禅定寺修二月堂荘厳式目(禅定寺文書)に、禅定寺を中心として村人による三座があり、頭人をはじめ刀禰以下の座衆中によって祭事を執行していたことが記される。

田原郷の郷の祭である田原祭は、御稲田や平等院領であった奥山田・禅定寺の集落は別として、それ以外の田原郷(庄)の宮座あげての行事で、三社祭ともよばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報