奥富村(読み)おきとみむら

日本歴史地名大系 「奥富村」の解説

奥富村
おきとみむら

[現在地名]斑鳩町大字興留おきどめ・興留一―九丁目・興留東一丁目

富雄とみお川西部、服部はつとり村・五百井いおい村東方に立地する。建久元年(一一九〇)一二月二五日の藤原友広田地売券(田中教忠文書)に「平群ヲヽトミノ御領」とあるのは当地のことと思われる。

文禄検地による村高は八七七・六六石。検地奉行は牧野伝蔵。慶長郷帳では「置留村」とある。慶長六年(一六〇一)竜田藩(片桐且元)領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の奥富村の言及

【狭山[市]】より

…埼玉県南部の市。北西流する入間(いるま)川をはさんで武蔵野台地と入間台地にまたがる。人口16万2240(1995)。1954年入間川町と入間,堀兼,奥富,柏原,水富の5村が合体,市制。中心の入間川は鎌倉街道が入間川を渡る地点の集落として起こり,江戸時代は2・7の六斎市が立った。逃水((にげみず))という地名や堀兼井,七曲井の遺構などに,水の乏しい武蔵野台地の特性がよく表れている。1895年に,川越鉄道(現,西武新宿線)が開通した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」