奈良屋番(読み)ならやばん

日本歴史地名大系 「奈良屋番」の解説

奈良屋番
ならやばん

[現在地名]博多区奈良屋町

蔵本番くらもとばんの北にあり、南北に延びる西町筋の両側町。東は市小路町中いちしようじまちなか、西は浜小路はましようじ町、北は奥小路おくしようじ町・古渓こけい町の通り(福岡博多近隣古図)。元禄三年(一六九〇)の家数三〇(続風土記)。明和三年(一七六六)の家数三五・間数一〇四間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数四二(博多店運上帳)。奈良屋九兵衛という者が居住していたため町の名となったと伝える(石城志)。西町から当町までを宗湛そうたん町ともよんだという。博多の町割の際、神屋宗湛(四郎貞清)豊臣秀吉から与えられた無公役の宅地があったとされる(→西町。延宝二年(一六七四)酒の他国への販売禁止を破って当町の伝三郎らが肥前長崎に売りにいったため科銀を課せられ、一時看板である酒林を出すことを止められ町預になった。貞享二年(一六八五)次兵衛らは法度を破って対馬藩領の肥前基肄田代たしろ(現佐賀県鳥栖市)から酒を取寄せて商売した廉で科銀を課せられた。享保元年(一七一六)には当町神屋市左衛門・松屋市右衛門が酒造業を営んでいる。宝暦九年(一七五九)には櫨の実晒蝋座五人のうちに当町の三右衛門がいた(以上「津要録」)。同年木綿問屋清三郎がいた(→万行寺前町。享和元年(一八〇一)宗湛屋敷で興行された上方役者(嵐伝五郎・柴崎青右衛門・嵐藤十郎・嵐七太朗・松島福蔵・山下京四郎・中村喜代三・中村吉弥)の芝居は評判が高く、連日連夜舞台見物がおびただしかったという(旧奇集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報