太海郷・院林郷(読み)ふとみごう・いんばやしごう

日本歴史地名大系 「太海郷・院林郷」の解説

太海郷・院林郷
ふとみごう・いんばやしごう

石黒三箇いしぐろさんか庄のうち吉江よしえ直海のみ大光寺だいこうじの各郷とともに一庄を構成する。伝領関係がほぼ同じであるため史料上両郷は一くくりに表されることが多いが、地理的には離れており、太海郷は現福光町の中部から南部にかけての小矢部おやべ川右岸域に比定され、院林郷は現福野ふくの町院林を遺称地とする。

建暦元年(一二一一)四月六日の関東御教書(醍醐寺文書)に「石黒庄内院林・太海両郷」とみえる。領家は鎌倉―室町時代を通じて山城醍醐寺遍智へんち院であった。暦応三年(一三四〇)三月の三宝院僧正坊雑掌覚弁言上状(三宝院文書)によれば、両郷は承安年中(一一七一―七五)官符を下されて以来院主・竹園(皇族)が代々管領し、伊勢神宮役夫工・大内裏造営・貢蘇・宇佐使・大嘗会などの課役を免除されてきたという。最も早いと思われる領家は寛喜三年(一二三一)八月二八日の前権僧正成賢譲状(醍醐寺文書)に「石黒本主六条局」と記される。この六条局(一説には後白河院の寵妃丹後局高階栄子)から平安末期ないしは鎌倉初期頃に遍智院に両郷領家職が伝えられたのであろう。嘉禄元年(一二二五)醍醐寺座主遍智院成賢は荒廃していた法住ほうじゆう清浄光せいじようこう(現京都市東山区)を再建すべく「越州両庄上分」をもって仏聖灯油以下に充てた(同年一〇月二日「僧正成賢置文案」同文書)。清浄光院は藤原信西妻で後白河院の乳母でもあった成賢の祖母朝子の建立になる。おそらくこの祖母の縁で成賢は後白河院ともかかわりがあったと考えられる。寛喜三年成賢は死期に臨んで両郷を含む庄園や清浄光院などを醍醐寺座主道禅に譲与し、その庄々の地利をもって自分や石黒本主六条局らの遠忌、後白河法皇追善、宣陽門院二世の祈祷を営むよう記し置いた。さらに道禅一期ののちは遍智院道教に清浄光院を除くほぼすべてを譲るように定めている。なおこのとき太海郷預所として僧賢実、院林郷預所として僧成実が置かれていた(前掲譲状案)。領家職は遍智院成賢から道禅・道教へと継承されたのち、弘安八年(一二八五)三月一二日亀山上皇により遍智院領として太政大臣実勝に安堵された(「亀山上皇院宣案」同文書)。正安四年(一三〇二)には実勝から遍智院を譲られた遍智院宮仁承(聖雲法親王)に安堵されている(同年八月二七日「後宇多上皇院宣案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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