大野木村(読み)おおのぎむら

日本歴史地名大系 「大野木村」の解説

大野木村
おおのぎむら

[現在地名]上野市大野木

朝屋ちようや村の南。東を流れる長田ながた(木津川)の自然堤防上にある清水北しようずきた遺跡から中津式土器(縄文後期)や石棒・石錘が出土している。平安末期から中世には大野木庄があった。

元禄七年(一六九四)新検を改め、本高九二一・〇二石、平高一〇五三・八石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数一六三、人口八一一、馬三〇で、社寺天満天神大辺おおべ祠・天神西福さいふく寺・大願だいがん(現廃寺)梅生ばいしよう(現廃寺)橋本はしもと寺・願生がんじよう(宗国史)生言寺しようごんじの天満天神はもと事代主命を祀り、天正の兵火に遭って文禄四年(一五九五)に再営したのち天満宮と称したといい(三国地志)、宝永元年(一七〇四)藩主藤堂高睦が初の入国の際参詣している(永保記事略)

大野木村
おおのきむら

[現在地名]度会町大野木

葛原くずわら村の南、宮川左岸段丘上に位置する。北方に国束くづか山地を負う。栃原とちはら(現多気郡大台町)への道は村の北を通り、集落より外れる。西は棚橋たなはし池からの小川によって開析された低地を隔てて河津こうづの集落があり、棚橋村と接する。古代の沼木ぬき郷の中心地とも大貫連の本貫地ともいわれる(度会町史)が不詳。伊勢神宮祠官荒木田氏の本拠地大貫おおぬきも当地に比定する説がある。近代まで水田の少ない畑作中心の低生産地であった。

法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)によれば、中世は棚橋村とともに伊勢神宮領大橋おおはし御園に含まれていた。

大野木村
おおのぎむら

[現在地名]七尾市大野木町

崎山さきやま半島北端部に位置し、灘浦なだうら海岸に沿って集落を形成。大野木川が富山湾に注ぎ、北は鵜浦うのうら村。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「大ぬき」とみえ、遊佐氏の給分であった。また「たちり」とあるのは当村の枝村立里たてりと考えられる。

初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高四七七俵余が土方領、うち三割五分は百姓得分。正保郷帳では高二六一石余、田方六町九反余・畑方一〇町四反余。

大野木村
おおのぎむら

[現在地名]西区大野木・宝地ほうち町・歌里うたさと

庄内川の北にあり、上小田井かみおたい村の東にある。応永六年(一三九九)の尾張国国衙正税未進注文(醍醐寺文書)に「参貫百五十文 大野木一向無沙汰同知行(畠山基国)」とある。この頃は山城国醍醐だいご三宝さんぼう院門跡領で、地頭は管領畠山基国であった。同九年の尾張国目代光守注進状(同文書)に「大野木 給人甲斐美濃」、翌一〇年の尾張国国衙領守護方押領注文(同文書)に「大野木 給人甲斐又八方」とみえる。永禄一〇年(一五六七)里村紹巴「富士見道記」に、

<資料は省略されています>

とある。

大野木村
おおのぎむら

[現在地名]山東町大野木

須川すがわ村の北に位置し、東部は山地、西側に平地が開ける。狐岡・カンジョ・石丸いしまる・西大野木・東大野木の五集落からなる。当地は山城醍醐寺円光えんこう院領庄園の柏原かしわばら庄の内であったが、平安末期までに大野木庄が分立柏原庄とほぼ同じ変遷をたどった。久安四年(一一四八)一二月六日の三宝院元三料菓子酒支配注文(醍醐雑事記)に、柏原庄の次に「大野木庄」と初見、菓子(木実・果物)一二合・酒一瓶子を賦課されている。これより先、天承元年(一一三一)に柏原庄の庄務権が円光院に帰した際に行われた検注によれば、大野木方の田五九町八反・畠三九町二反半が寺家方に把握されている(年月日未詳「円光院領目録」三宝院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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