大野新田(読み)おおのしんでん

日本歴史地名大系 「大野新田」の解説

大野新田
おおのしんでん

[現在地名]富士市大野新田

今井いまい村の東に位置し、北はぬま川に接し、南は駿河湾に面する。東海道が通る。駿東すんとう青野おおの(現沼津市)が開発したといい青野新田と記した(修訂駿河国新風土記)はら宿(現沼津市)吉原よしわら宿間は距離が長いうえ人家がわずかしかない原であったので、幕府は街道の安全のため、両宿の間を新田開発させ、農民を住まわせようとし、慶長九年(一六〇四)高橋庄右衛門に、どこの者でも構わず呼寄せて新田開発をさせるよう命じ、新田は諸役不入とされた(長橋家文書)。延宝二年(一六七四)、天和三年(一六八三)などに検地が行われたという(天保二年「大野新田檜ママ新田御水帳控帳」同文書)

大野新田
おおのしんでん

[現在地名]伊丹市大野一丁目

川辺かわべ山本やまもと(現宝塚市)のうち(宝塚市の→山本村。伊丹郷町から山本村のうち口谷くちたにを通る丹波道の西にある。もとは山本村・平井ひらい(現同上)昆陽野こやの芝地の一角で、荻野おぎの村が六斗の野料米を払い利用を認められていた。山本村・平井村の求めで荻野村は延宝四年(一六七六)芝地の四割を両村に返還。そのうち、享保年間(一七一六―三六)に本格的な新開が認められ同一五年検地を受けた分が当新田にあたる。

大野新田
おおのしんでん

[現在地名]三島町大野

くろ川と支流の菖蒲しようぶ川に挟まれた沖積低地にある。西は脇野町わきのまち中条なかじよう、南は新保しんぼ、北は下河根川しもこうねがわの各村。口碑では承応三年(一六五四)に脇野町村の枝郷として開作されたという(大津郷土誌)。初め高田藩領、以後幕府領・高田藩領・佐倉藩領・淀藩領・幕府領・与板藩領を経て幕末に至った。天和三年郷帳に高二五三石七斗余とみえる。その後幕末まで村高の変化は認められない。戸口は「関守」(与板町郷土資料館蔵)によると、天保九年(一八三八)に二三軒、男五〇人・女五二人。同一四年には鍛冶職一人がみえる(諸職人増減書上帳「関守」所収)

大野新田
おおのしんでん

[現在地名]狭山町大野・大野台おおのだい二丁目・同四―六丁目・西山台にしやまだい四―五丁目

今熊いまくま村の南にあり、西は和泉国に接する丘陵地に位置する。現町域北西端に飛地口大野くちおおのがある。元禄一一年(一六九八)より同一五年にかけて、大野芝おおのしばとよばれる丘陵地帯を武蔵の人太田新造(蔵)が開発、同一五年に幕府代官の検地があり幕府領となった(同年「大野新田検地帳」狭山町史所収)。太田氏は同一一年に草尾くさお新田(現堺市)開拓にも従事しており、大野新田は町人請負新田かとも思われるが詳細は不明。宝永六年(一七〇九)鍬下年季が終わり石盛がなされたが、地主は延享四年(一七四七)に日置五郎右衛門、寛政八年(一七九六)に筒井幸次郎などと替わっている。

大野新田
おおのしんでん

[現在地名]加治川村大野

東は坂町さかまち村・金沢新かなざわしん村、南は戸野湊とのみなと新田。享保二〇年(一七三五)初検地の紫雲寺しうんじ潟新田の一村で、後願人湯川ゆがわ(現南蒲原郡田上町)佐五郎の請地。元文元年(一七三六)検地帳(「郷土史概論」所収)によれば、高四四九石余・反別四六町三反余、ほかに除地として秣場・社地などがあり、総反別は四六町五反余。飛地は旧潟西縁に一ヵ所あった。

大野新田
おおのしんでん

[現在地名]板倉町大野新田

じようヶ山北西麓に位置し、東は栗沢くりざわ村、南は猿供養寺さるくようじ村、西は釜塚かまづか村に接する。天和三年(一六八三)の検地帳(長藤文書)によれば高六一石七斗余、田二町四反余・畑九町三反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報