大賀村(読み)おおがむら

日本歴史地名大系 「大賀村」の解説

大賀村
おおがむら

[現在地名]潮来町大賀

大生おおう村の北西に位置し、村の西部は台地、東部は北浦に面する低地。古代の逢鹿おうが郷の本郷の地に比定され、正倉院宝物の臈蜜袋に「常陸国行方郡逢鹿郷戸主建部身麿調布壱端専当国司史生正八位上高志史広道 郡司大領外正八位下壬生直足人天平勝宝五年十月」とあり、布袋に「常陸国行方郡逢鹿郷戸主壬生直宮万調布壱端専当国司史生正八位上高志広道 郡司大領外正八位下壬生直足人天平勝宝五年十月」とある。大賀村と称した初見は弘安五年(一二八二)の鎌倉将軍家寄進状(鹿島神宮文書)

<資料は省略されています>

とあり、大賀村の地頭職蒙古襲来にあたっての祈祷賞として、幕府から鹿島神宮に寄進されている。

大賀村
おおかむら

[現在地名]館山市大賀

笠名かさな村の西に位置し、北はかがみヶ浦に臨む。西はこうやつ村。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では香五ヵ村のうちに含まれて高付されていたと思われる。同一一年の里見家分限帳に村名がみえ、高一二七石余、右筆三浦半右衛門の給知。寛永二年(一六二五)知行宛行状で当村高一五七石余が旗本石川正次に与えられている。正保郷帳でも石川領で、田高一一四石余・畑高四二石余。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)、元文村高帳では石川領高一〇石余・旗本酒井領一四七石余の相給。文化七年(一八一〇)には陸奥白河藩領。天保一三年(一八四二)武蔵忍藩領となる(同一四年忍藩領郷村高帳)

大賀村
おおがむら

[現在地名]吉川町大賀

北西を山直海やまのうみ村に接し、東は名木山なぎやま村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所持州分をゝか村 下」とみえ、「本納廿□石九斗 縄高三拾五石三斗 」家三軒・一〇人とある。正保国絵図に高九五石余とある。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳には高六五石二升とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報