大茂内村(読み)おおもないむら

日本歴史地名大系 「大茂内村」の解説

大茂内村
おおもないむら

[現在地名]爾志にし郡乙部町字栄浜さかえはまなど

近世から明治初年の村。小茂内こもない村の北、突符とつぷ川流域に位置する。「津軽一統志」に「もない 川有 家十四軒」とみえる。元禄郷帳には「大もない村」とあり、享保十二年所附には大茂内村と村内の地名「むつから」がみえる。宮歌村旧記(北海道大学北方資料室蔵)によると、寛永一二年(一六三五)宮歌みやのうた(現福島町)松前八左衛門(二代松前藩主の三男)知行所とされたとき、当村は枝村として付与されたという。しかし知行所となったのは、出府して旗本になっていた八左衛門が、明暦元年(一六五五)松前藩主の後見として松前に来たときと考えられる(松前町史)。旗本松前氏は当村に小頭を置いて支配したが、漁業役のような本税は松前藩に納め、小物成として干鮑・数の子・昆布などを毎年江戸の松前家に納めさせた(宮歌村文書)

大茂内村
おおしげないむら

[現在地名]大館市大茂内

大館盆地北東部、北部山地から南流する大茂内沢下流域に位置する。「六郡郡邑記」に元和年中(一六一五―二四)羽立とあり、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に大重内村八五石、新田とみえる。しかし享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とある。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳には当高一六六石余とあり、うち一〇六石が蔵分と記載される。村勢は慶安元年(一六四八)四〇戸、一六八人、寛政一二年一六戸、八三人、安政四年(一八五七)二八戸、一六四人、同七年四〇戸、二一六人(大館市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android