大津城跡(読み)おおつじようあと

日本歴史地名大系 「大津城跡」の解説

大津城跡
おおつじようあと

[現在地名]大津市浜大津一―三丁目・中央一丁目・長等二―三丁目

琵琶湖に面した近世初頭の城郭。現在の浜大津はまおおつ港南方に位置した。天正一四年(一五八六)の初め、羽柴秀吉によって築かれたとされる。築城の正確な時期は未詳であるが、同年正月二八日秀吉は前日の坂本城における連歌会に引続き大津で連歌会を催しており(兼見卿記)、この頃すでに大津になんらかの施設が出来上っていたらしい。なお秀吉の坂本下向は、同月以後は史料にみえず、代わって大津下向がしばしば記録にみえるようになり、坂本から大津へ城が移されたのはほぼこの前後のことと推定される。

秀吉が坂本城を廃し、大津に城を移した最大の理由は、天正一一年五月の賤ヶ岳の合戦後、政治・経済の中心を大坂に置こうとしていたことによる。秀吉は琵琶湖の水運を利用して運ばれる東国・北国の諸物資の終着点を、それまでの京都ではなく大坂に変更する意図のもと、湖岸の物資集積地を坂本から大津に移したほうがより効率的と判断、城を当地に移したのである。以後、諸物資は大津に陸揚げされ逢坂おうさか越で山科やましな(現京都市山科区)に出、そこから伏見ふしみ(現同市伏見区)を経由してよど川水系を利用して大坂にまで運ばれるようになった。ただし当城は逢坂越から北へ坂を下りきった湖岸に位置し、背後に湖をひかえているとはいえ、地形的には最低位に築かれたわけで、城本来の重要機能である防備という点では大きな欠陥を当初からもっていた。すなわち経済的重要性にのみ基づいて築かれた城といえよう。

さらに秀吉が当城をしばしば訪れたのは、城郭としてよりも湖岸の別荘としての利用価値を見いだしたためと思われ、秀吉が任じた歴代の城将を一見しても、このことは明らかである。坂本城の城将からそのまま大津城の城将になった浅野長吉、長吉の跡を継いで天正一七年に二代目となった増田長盛は、ともに秀吉の五奉行のメンバーであった。

大津城跡
おおつじようあと

[現在地名]高知市大津 関

高天ヶ原たかまがはら山から北に延び、舟入ふないれ川の南側にある標高約七〇メートルの山にあった平山城。北方に岡豊おこう城跡(現南国市)を望み、西は田畑を隔てて岩崎いわさき山となっている。天竺てんじく城とも称された。「南路志」は

<資料は省略されています>

と記す。城主は天竺氏と伝えるが、その系譜は諸説ある。貞治三年(一三六四)細川天竺禅門が伊予国の湯月山で戦死した(予章記)というが、「土佐州郡志」はこの細川天竺禅門を大津城主天竺孫十郎の祖とし、「土佐国古城略史」はそれを否定して細川肥後守の子とする。また「土佐遺語」は京都西山の人で天竺右近花氏が土佐国に来て大津城主になったとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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