大日能忍(読み)だいにちのうにん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大日能忍」の意味・わかりやすい解説

大日能忍
だいにちのうにん
(?―1194/1195)

平安末・鎌倉初期の僧。達磨(だるま)宗(日本禅宗一派)の祖。大日は房号。初め天台の僧で、師をもたずに独悟し、摂津(せっつ)(大阪)水田に三宝寺を開き、禅を唱道した。しかし人々に師承のないことをそしられ、1188年(文治4)弟子の練中(れんちゅう)、勝弁(しょうべん)を宋(そう)の育王山拙庵徳光(せったんとくこう)(1121―1203)のもとに派遣し印可を得た。叡山(えいざん)はその活動を弾圧し、栄西(えいさい)も能忍の禅を批判したが、達磨宗教団は一大勢力となり、のちその一派は道元教団形成の中核となった。建久(けんきゅう)5年(または同6年)甥(おい)の平景清(たいらのかげきよ)に刺殺された。三宝寺は中世を通じ舎利信仰の寺として存続し、関係資料が正法寺(京都府八幡(やわた)市)に伝存する。

[石川力山 2017年9月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「大日能忍」の意味・わかりやすい解説

大日能忍 (だいにちのうにん)

鎌倉初期の禅宗の僧。生没年不詳。達磨宗を開いたといわれる。平景清の叔父と伝える。摂津吹田に三宝寺を建て,禅法を広めたが,その師承なきを誹謗されたため,1189年(文治5),弟子の練中・勝弁を入宋させて拙庵徳光の証明を受けた。栄西に先立って禅宗を広めた点は注目されるが,その孫弟子孤雲懐奘(えじよう)が道元の弟子となって曹洞宗に加わった以外は弟子がなく,法脈はとだえた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大日能忍」の解説

大日能忍 だいにち-のうにん

?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
独学で禅の悟りを得,摂津水田(大阪府)に三宝寺をひらいて日本達磨(だるま)宗の開祖となる。文治(ぶんじ)5年(1189)弟子の練中,勝弁を宋(そう)(中国)の拙庵徳光のもとにつかわしその印可をうけた。建久6年ごろ誤解から甥(おい)の平景清に殺害されたという。諡号(しごう)は深法禅師。号は大日房

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世界大百科事典(旧版)内の大日能忍の言及

【禅宗】より

…とくに初期の深草興聖寺に集まった道元の弟子たちは,永平2世となる懐奘(えじよう)や3世義介(ぎかい)をはじめとして,大半が日本達磨宗の人々である。日本達磨宗は,日本天台より出た大日能忍が,叡山の祖師たちの伝える達磨禅の書によって無師独悟し,新しく開創した日本禅であり,すでに数代の伝統をもつ。能忍は弟子を中国に派し,育王山の徳光に印可を求めて,印可を得る。…

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