大寺廃寺(読み)おおでらはいじ

日本歴史地名大系 「大寺廃寺」の解説

大寺廃寺
おおでらはいじ

[現在地名]八日市場市大寺

椿つばき海を望む台地上に所在し、匝瑳そうさ郡家にかかわると想定される古代寺院跡。平成元年(一九八九)に発掘調査が実施され、掘立柱建物跡と基壇と思われる版築状の遺構が確認されたが、建物の規模や寺跡の実態は不明。採集された遺物や出土遺物の多くは瓦で、鐙瓦は単弁八葉蓮華文四種、単弁六葉蓮華文一種、単弁一六葉蓮華文一種が確認されているが、宇瓦は不明。

大寺廃寺
おおてらはいじ

[現在地名]木更津市大寺

小櫃おびつ川下流域北岸の沖積微高地上にある。現状は熊野神社と墓地になっている。本格的な調査は行われず具体的な伽藍配置は不明。神社境内地に県内唯一の塔石製露盤があり、塔の存在を裏付ける。創建期の軒先瓦には、面違鋸歯文縁複弁八葉蓮華文鐙瓦と深顎三重弧文宇瓦がある。東日本で出土する川原寺式鐙瓦のなか技法・文様構成とも最も川原寺式に近く、創建は奈良県明日香あすか村の川原かわら寺が最終的に完成する天武二年(六七三)頃までと考えられ、県内寺院の先駆をなす寺である。そのほかに奈良・平安時代の寺の修造に伴う瓦も多く出土し、寺の経営・維持が長期にわたったことが推定でき、定額寺に列していた可能性もある。

大寺廃寺
おおてらはいじ

[現在地名]岸本町大殿

大寺集落の南東部、日野川が山間を抜けて米子平野へ出る辺りの同川左岸段丘上に位置する。大正七年(一九一八)石製鴟尾(国指定重要文化財)が発見され、この発見を契機として塔心礎を確認、廃寺の存在が知られた。昭和四一年(一九六六)には国道一八一号の改良事業に伴って調査され、伽藍配置なども明らかになった。伽藍配置は東を正面とする法起寺式伽藍で、全国的にも類例は少ない。国道によって分断されているものの北に塔、南に金堂、西に講堂を配し、回廊が講堂に取付いている。

大寺廃寺
おおでらはいじ

[現在地名]小野市新部町 大寺

加古川中流域の右岸にあり、青野原あおのがはら台地に近い標高三〇メートル前後の微高地に立地する。新部しんべ廃寺とも称される。白鳳時代から平安時代前期まで存続したと推定される。昭和五六―五七年(一九八一―八二)に発掘調査が実施された。東塔跡は一段刳込みの心礎がほぼ原位置に遺存する。基壇築土は壊されているが、基底部の一辺は一四―一五メートル程度の規模である。西塔跡は西方二四―二五メートルのところに所在するが、発掘は実施されていない。

大寺廃寺
おおてらはいじ

[現在地名]日高市山根 下大寺、入間郡毛呂山町葛貫

毛呂山もろやま丘陵南端部の標高九〇―一〇〇メートルのゆるやかな南斜面にある。南を宿谷しゆくや川が東流する。東と西には寺域と推定される深い谷が存在し、比高は約一〇メートル。昭和五六年(一九八一)から同五八年と同六〇年の範囲確認調査で、礎石を伴う東西三間・南北三間の建物跡一、東西四間・南北五間の建物跡一、そのほか雨垂れ石を並べた建物跡などを確認した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大寺廃寺の言及

【鳥取[市]】より

…鳥取県東部に位置する県庁所在都市。1889年市制。人口14万6330(1995)。市域は千代(せんだい)川下流部の鳥取平野と周辺の山地からなり,県の政治,経済,文化の中心的役割を果たしている。千代川東岸の低湿な三角州に位置する中心市街地は,近世には池田氏の城下町で,袋川下流部の河道を付け替え,池沼などを埋め立てて形成された。1871年鳥取県が成立したが,75年からの5年間は県全体が島根県の管轄下におかれ,松江に中心が移ったため,鳥取の町は一時さびれた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」