大坊村(読み)だいぼうむら

日本歴史地名大系 「大坊村」の解説

大坊村
だいぼうむら

[現在地名]珠洲市若山町大坊わかやままちだいぼう

内山うちやま村の西にあり、八太郎はつたろう峠に至る道と大谷おおたに峠に至る道の分岐点にあたる。地内正福しようふく寺の過去帳によれば江戸初期まで当地一帯を若山村と称しており、延武のぶたけ村を含め若山郷の本郷であった可能性がある。「能登志徴」の引く郷村名義抄によれば、往古真言宗の一二坊があったという。天正六年(一五七八)二月一二日藤右衛門尉政徳が「寺合御坊」(のちの正福寺)に居屋敷を寄進しており(正福寺文書)経念きようねん村・なか村などを転々としていた正福寺が当地に寺基を固め、村名の起りとなったのであろう。寛永一二年(一六三五)の御図帳写はかつての名主兼森の系譜を引く兼森家の文書で、村名がみえ高一九三石余、ほか古開四石余、同七年・八年新開分八石余、同一〇年新開分三石余となっている。

大坊村
だいぼうむら

[現在地名]平賀町大坊

ひら川が形成した扇状地の自然堤防上にあり、村内を庄司しようじ川が北へ貫流する。北は石畑いしばたけ村、南は岩館いわだて村、東は原田はらた村に接する。

津軽一統志」によれば、天正七年(一五七九)比内ひない(現秋田県大館市・北秋田郡)にいた大光寺左衛門の子六郎七郎は大光寺だいこうじ奪還を企て、これに対し大浦(津軽)為信は本陣を「大防岩館村」に置いている。古くは大坊は岩楯いわだて(館)郷の一部であったといわれ、建武二年(一三三五)正月二七日の曾我貞光申状(斎藤・遠野南部文書)によれば「岩楯郷内熊野堂事」に三町歩の土地を寄進している。この熊野堂は大坊の熊野堂とみられている。

大坊村
だいぼうむら

[現在地名]岩手町大坊

大坊川流域に広がり、南は川口かわぐち村、北は沼宮内ぬまくない村。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入金目高六二石余、免は一〇〇石につき三七匁で「御物成諸役共」とある。「邦内郷村志」では蔵分五二石余、家数二〇、馬六五。享和三年(一八〇三)仮名付帳では家数二二、うち本村一一で、枝村は日影屋敷ひかげやしき四・さわ一・むじなさわ一・屋敷やしき二・松坂まつさか三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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