大乗院跡(読み)だいじよういんあと

日本歴史地名大系 「大乗院跡」の解説

大乗院跡
だいじよういんあと

奈良公園内のあら池の南、鬼園きおん山の上に建つ奈良ホテルの南側下方、高畑町にあった門跡寺院。興福寺三箇院の一。寛治元年(一〇八七)権別当隆禅が先考の恩に報いるために創建(菅家本「諸寺縁起集」)。第三代院主に関白藤原師実の子尋範が入り、以後一乗院と並んで両門跡となり、交代で興福寺別当職についた。当初、一乗院の東隣の龍華樹りゆうげじゆ(龍華院)跡にあったが、治承四年(一一八〇)の兵火後、元興がんごう寺別院の禅定ぜんじよう(現在地)に移された。興福寺寺務職の門跡で、御所ともよばれた。禅定院・龍華樹院とともに統合され、三箇院家を形成した。禅定院への移徙で奈良南郊は大乗院門跡郷となり、門跡管領のみなみ(現奈良市)が設けられた。

大乗院跡
だいじよういんあと

[現在地名]鹿児島市稲荷

現在の清水しみず中学校の地に位置した真言宗寺院。前を稲荷いなり木川)が流れる。経囲山宝成就ほうじようじゆ寺と号し、本尊は千手千眼観音。山城醍醐寺三宝さんぼう院・京都大覚寺両寺末(「三宝院末寺目録」醍醐寺文書、「大覚寺譜」)。島津氏の祈願寺で、鹿児島藩最大の密教寺院であった。天文年中(一五三二―五五)島津貴久の代に伊集いじゆう院の荘厳しようごん(現伊集院町)を移して創建された。初めは浄光明じようこうみよう寺下の般若はんにや院の地にあったという。荘厳寺は応永年間(一三九四―一四二八)良範によって創建され、鹿児島大興だいこう寺、坊津一乗ぼうのついちじよう(龍巌寺、現坊津町)とともに領内における真言宗の三本山とされた。島津貴久はその寺地が鹿児島から遠いとして鹿児島松峯山の南麓に移し、荘厳寺九世俊盛を開山に迎え大乗院を創建、祈願所とした。弘治二年(一五五六)大乗院三世久誉のとき現跡地に移されたという(三国名勝図会)

大乗院跡
だいじよういんあと

[現在地名]鷲宮町鷲宮一丁目

もと土師山神宮じんぐう寺と称し、鷲宮神社別当寺として大同年間(八〇六―八一〇)に創建されたという。永仁四年(一二九六)一一月八日銘の梵鐘には「武州寄東郡太田御庄鷲宮大明神神宮寺之鐘一口」と刻まれていたとされる(風土記稿)。この神宮寺がその山号を鷲山、院号を大乗院と改め、真言宗大和国長谷はせ(現奈良県桜井市)小池こいけ坊の末寺となった時期は不明であるが、文禄四年(一五九五)八月の棟札(同書)に供僧頭大乗院とある。それ以前天正一八年(一五九〇)徳川家康関東入国のとき神主大内氏より社領四〇〇石のうち供僧頭として高二五石、ほか供僧万善ばんぜん寺に八石、福伝ふくでん坊・実相じつそう坊・宝珠ほうじゆ院に各五石の計四八石(反別五町九反余)を寺領として付置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報