夜須庄(読み)やすのしよう

日本歴史地名大系 「夜須庄」の解説

夜須庄
やすのしよう

現夜須町のうち添地そえじ集落以南の地。天正一六年(一五八八)の夜須庄地検帳に「大忍と夜須大堺鐘撞森下谷也」とあり、鐘撞森かねつきもりは現添地付近で、同地検帳には「庄堺村」の村名もみえる。

古代の安須やす(和名抄)の地に成立したと思われる荘園で、承安元年(一一七一)一二月一二日付の官宣旨案(石清水文書)に、山城石清水いわしみず八幡宮宝塔ほうとう院領一二ヵ所の一つとして「土左国夜須庄」がある。養和元年(一一八一)一二月二日付の後白河院院庁下文案(同文書)や、同趣旨の建久元年(一一九〇)一二月日付同下文案(同文書)にも荘名がみえる。養和元年の下文案に引かれる宝塔院主法印成清の申状によると、夜須庄を含む一二ヵ所の荘園は、寛仁(一〇一七―二一)頃に「宮寺御領之内、為向後相違之所々、被寄当院之事、旁無其隠乎」であるにもかかわらず、「各成私領相伝之思、語権門而不年貢、乖院家下知」の「濫望輩」がいたため、宝塔院領として所務できない状態にあったという。

夜須庄
やすのしよう

鎌倉期から戦国期にかけてみえる庄園。比定地および庄域は未詳であるが、現夜須町周辺に所在か。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書/鎌倉遺文一〇)に「庄務本所進退所々」の一所として「夜須庄」がみえ、本所である近衛家が庄務を進退していた。当庄は「知足院殿新立」すなわち藤原忠実の新立とされており、また「成楽院領」とあり、当時は成楽院(忠実が自らの別邸小松殿内に建立)の所領となっていた。建武三年(一三三六)六月三〇日の仁木義長宛行状案(青方文書/南北朝遺文(九州編)一)では「夜須庄内里村地頭職拾伍分壱」が青方高直に宛行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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