塩津浦(読み)しおつうら

日本歴史地名大系 「塩津浦」の解説

塩津浦
しおつうら

[現在地名]下津町塩津

和歌浦わかのうら湾の南岸に位置する北向きの小湾に集落が集まる。西は丸田まるだ村、南はしも村。大崎おおさき浦とともに古くからの港として知られる。「中右記」天仁二年(一一〇九)一一月六日条に、熊野詣帰路「橘下王子」から舟津に出て海上を和歌浦(現和歌山市)に向かう記事があるが、この舟津が塩津浦と考えられる。塩津は潮津つまり海の港の意である。

中世浜中はまなか庄のうち北庄に含まれ、北庄の地頭職をもっていたと思われる湯浅党の沙弥道智が、一族の貴志朝綱に譲った地頭職のうちに「塩津浦地頭職」が含まれる(貞治元年一一月二五日「沙弥道智譲状写」御前家文書)。しかし地名はさらに古く正応二年(一二八九)一二月日付の湯浅宗重跡本在京結番定文案(崎山家文書)注記として「丁・塩津今年除之」とみえる。同定文案には丸田・大崎の地が保田やすだ(現有田市)に加えられて記されるなど、浜中北庄に湯浅氏の勢力が早くから及んでいたことを裏付ける。

慶長検地高目録によると村高一〇八石余。加茂組に属した。宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によれば、当村は御蔵所で、本田畑高二七一・八二二石、新田畑高一・〇一四石、開起田畑〇・八五二石、戸数一千六四五とある。

塩津浦
しおつうら

[現在地名]平田市塩津町

かま浦の東に位置する。北は日本海に面する浦方で、東はただ浦。正保国絵図に浦名がみえ、「雲陽大数録」では石新田高五斗余。寛政四年(一七九二)の万差出帳(平田市立旧本陣記念館蔵)によると石新田高一石余(田八反余・畑三反余)。天保一四年(一八四三)の東組・西組順村手引帳(平田市立図書館蔵)では石新田のほか米取立の新田(一升余)があり、同一三年の免は四ツ五分四厘。宝暦一四年(一七六四)の万書出帳(和泉家文書)によると主要漁獲物には鰺・鯛・コビル・鰤・シイラ、イカなどがあり、漁法としては大敷網のほか釣漁も盛んであった。寛政四年には山手役・地銭役のほか水夫米三石、浦役・鯖松役・鯣役・和布役・鯖役・追鯖松役などの小物成が課せられ、大敷網(一川分)や伝渡船一五艘分(ほかに庄屋御免舟一)などの役銀も負担、また矢竹御立山五ヵ所があった(前掲万差出帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報