塔原(読み)とうのはら

日本歴史地名大系 「塔原」の解説

塔原
とうのはら

入来いりき院内の地名。たんに塔原のほか、塔原郷・塔原村ともみえる。市比野いちひの川が入来川と合流して樋脇川となる平坦地を中心に、市比野川をさかのぼって市比野に達する地域までを含む。現在の樋脇町塔之原の城内じようない岩元いわもと村子田むらこだ前床まえとこ鍋原なべはら金具かなげ牟礼むれ禰礼北ねれきた田代たしろの範囲にあたる。

〔平安時代以来の領主〕

伴氏一族の寄田氏が名主として塔原を支配していた。寛元四年(一二四六)千葉秀胤(常胤の曾孫)は執権北条時頼の排除に同調して勘気を被り上総国に追放された際、寄田信忠が訪わなかったとして「入来院内塔原」の名主職を奪った(建長二年四月二八日「関東下知状」入来院文書)。入来院地頭が渋谷定心(入来院氏初代)に代わると、宝治元年(一二四七)八月、伴(寄田)信俊・信忠・信資は、渋谷氏に対して忠節を誓う起請文を出した(同月五日「伴信俊・信忠・信資連署起請文」同文書)。この結果、信俊は名主職に還補されるが、まもなく改易された。この件は裁判となり、鎌倉幕府は名主職は地頭の進止であるという渋谷氏側の主張を支持し、寄田氏側は敗訴した(前掲関東下知状)。しかし寄田氏の抵抗は嘉暦三年(一三二八)頃、楡木田にれきた(現禰礼北)のうち二町を押領するなど(同年一二月二一日「渋谷惟重遺領注進状案」入来院文書)、鎌倉時代末までやまなかった。なお禰礼北には現在も寄田よりたという小字が残る。寄田氏と同族である武光氏も塔原内南部なべ村・弥毛原やけはら村を所領としていた(応長二年六月一七日「武光法忍譲状」同文書)。また乾元二年(一三〇三)八月一〇日の大前則道和与状(同文書)によれば、則道は入来院書生得分のうち塔原分毎年二石五斗を受取ることとなった。

〔地頭職〕

年月日欠の渋谷定心知行分所領目録(寺尾文書)に入来院内塔原郷がみえる。入来院地頭職を得た定心は検注を実施する。建長二年(一二五〇)一二月日の入来院内村々田地年貢等注文(入来院文書)によれば、塔原村は総田数四二町九反四〇代で、領家への年貢が一七石六斗四升四合、国司へは一八石八斗四升五合、地頭得分一八石八斗六升六合となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android