坂田保(読み)さかたほ

日本歴史地名大系 「坂田保」の解説

坂田保
さかたほ

祇園ぎおん町付近に比定され、京都祇園社(八坂神社)領・坂本日吉社領・三千院門跡領などの坂田保が確認される。

〔園社領坂田保〕

祇園社(感神院)四箇保の一つで、祇園保ともいわれた(「建内記」文安四年五月一九日条)。長寛二年(一一六四)九月二五日の官宣旨(古文書纂二坂本蓮華院文書)によれば、承徳二年(一〇九八)犬上いぬかみ郡に祇園社の保が立てられたが、所当難渋となったため、保司大別当勝尊は保延年間(一一三五―四一)に坂田北郡細江ほそえ郷内の散位源保の坪付をもって立替えようとした。しかし同所を開発したと称する召次大番の反対にあい、鳥羽院に列参した結果、三〇町の所当米が感神かんじん院日別御供料として弁済されることとなった。久安五年(一一四九)勝尊は保司職を弟子の賢円に譲った。その後再び保民が所当米納入を渋り、さらに延暦寺西塔慶救の押妨を受けたため、長寛元年の賢円の訴えにより、翌年押妨の停止などが命じられている。だがその後も召次・大番の抵抗で日別供料米に不足が生じ、養和年間(一一八一―八二)召次雑事米をもって供料米を補填することが承認された。しかし押領はやまず、国衙からも臨時勅事・院事・国役雑事が賦課されたため、感神院の要請により、文治三年(一一八七)一〇月一七日、蒲生がもう保の例に任せ細江郷内五条一一里・一二里への国衙検田を停止し、召次らの給田五町九反と大番給田三反一二〇歩を除き官省符庄に準じた保田とすることが認められた(「後白河院庁下文案」東洋文庫蔵民経記寛喜三年四月巻裏文書)。これにより、祇園社領坂田保が確定し、その一方で保内に召次給・大番給の設定が認められ、以後戦国期まで存続した。なお白河院時代の当保が負担する神供日次は、八・九・一〇・一一・一二各月中旬の計五〇日の料米四二石九斗五升と、閏月中旬一〇日・料米八石五斗九升で、そのほか御塔供料以下恒例・臨時の社役多数が賦課されていた(八坂神社記録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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