土佐泊浦(読み)とさどまりうら

日本歴史地名大系 「土佐泊浦」の解説

土佐泊浦
とさどまりうら

[現在地名]鳴門市鳴門町土佐泊浦

現鳴門市の北東端、大毛おおげ島の東部の大部分を占める南北に長い村。北は鳴門海峡淡路島門崎とざき(現兵庫県南淡町)と向い合う。大毛島北端部まご崎と門崎の間は暗礁が多く、はだか島・とび島があり、潮流激しく大渦のみられる景勝地となっている。南部は小鳴門海峡の南の入口で夫婦みようと岩や岩礁があり、景色がよく撫養むや湊の入口でもある。同湊との間には土佐泊渡(岡崎渡)があり、同渡から海岸沿いに孫崎に至る道と、小鳴門海峡沿いに西方三石みついし村に至る道が通る。古代以来当地が那賀なか郡を経て土佐国に至る駅路に位置していたことから地名が出たともされている(阿波志)

「土佐日記」承平五年(九三五)一月二九日条に「おもしろきところにふねをよせて、「ここやいどこ。」ととひければ、「とさのとまり。」といひけり」とあり、紀貫之はここで同船した女性に仮託して「としごろをすみしところのなにしおへばきよるなみをもあはれとぞみる」の一首を詠んでいる。貫之任地の土佐からの帰洛に際して船を利用しており、土佐浦戸うらど湾から阿波を抜け大坂湾からよど川に入っている。海賊におびえながらの船旅であった。土佐から阿波に抜ける航路には、八世紀段階には官道として存在していた南海道支道(水上交通路)を用いている。この経路沿いには多くの津が所在しており、それを利用しての北上であったが、津の名前は記しておらず、阿波最後の停泊地として「とさのとまり」の名前のみが表れている。松瀬まつせ山の頂上には平安時代前期の土佐泊廃寺があり、この地が四国と淡路・紀伊を結ぶ重要な交通路であったことを示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報