国府・府中・城府・駿府(読み)こくふ・ふちゆう・じようふ・すんぷ

日本歴史地名大系 「国府・府中・城府・駿府」の解説

国府・府中・城府・駿府
こくふ・ふちゆう・じようふ・すんぷ

古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍あべ川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷はせ通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内よこうち上足洗かみあしあらい方面などの説がある(静岡県史)中世には古代以来の国府以外に府中・城府・駿府などともよばれた。

〔国府〕

中世に国府と記された史料は必ずしも多くない。「源平盛衰記」巻二三によると、治承四年(一一八〇)一〇月一〇日に平家の源頼朝追討軍が「駿河の国府」に着いている。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一二月二四日条には、上洛の帰途の頼朝が国府に着いたことが記される。建武二年(一三三五)八月一四日、足利尊氏が建武政権に反した北条時行を討伐するために下向、「駿河国府合戦」を行った(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」国会図書館所蔵文書)。康永二年(一三四三)八月一八日の実祐・平盛平連署奉書写(「諸家文書纂」所収興津文書)によると「駿河国苻」の長者某が所領公事を免除されている。永享四年(一四三二)の将軍足利義教の富士歴覧に際しての飛鳥井雅世の著した「富士紀行」や中原師郷の日記「師郷記」にも国府とみえ、文亀―大永年間(一五〇一―二八)に連歌師宗長が著した「宗祇終焉記」や「宇津山記」「東路の津登」「宗長日記」、天文―永禄年間(一五三二―七〇)の歌人相玉長伝の私家集「心珠詠草」などにも国府と記載されている。永禄元年に京都より鎌倉までの宿次が書写された「実暁記」には、手越てごし宿と瀬無河せながわ宿(瀬名川宿)との間の宿として国府がみえ、手越宿から一里、瀬無河宿へ五〇丁の距離にあると記される。なお「経覚私要鈔」応仁二年(一四六八)条の末尾にもほぼ同様の記述があるが、国府―瀬無川間は一里とある。大永八年九月一五日には、今川氏輝が「駿河国府新長谷寺」の千代菊に同寺を安堵している(「今川氏輝判物」長谷寺文書)新長谷しんはせ寺は駿河国惣社である神部かんべ神社(静岡浅間神社を構成する三社の一つ)東方の門前通りにあり、国府の中心地に位置すると目されることから、このように記されたと考えられる。

〔府中〕

南北朝時代から使われた駿府の別称。駿河国府に由来する。苻中・府・苻・符と記され、府内と書く場合もある。観応元年(一三五〇)一二月日の伊達景宗軍忠状(駿河伊達文書)に「苻中」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報