唐津城下(読み)からつじようか

日本歴史地名大系 「唐津城下」の解説

唐津城下
からつじようか

文禄二年(一五九三)、寺沢志摩守広高は豊臣秀吉により改易となった波多三河守親の遺領ならびに草野鎮永の旧領など上松浦かみまつらの地六万三千石を得、のち筑前怡土いと(現福岡県糸島郡)二万石、さらに慶長六年(一六〇一)には肥後天草あまくさ(現熊本県天草郡)四万石を加えて一二万三千石の大名となる。広高は慶長七年から一三年にかけて唐津城を築き、松浦川河口に城下町を建設した。寺沢氏は正保四年(一六四七)二代堅高で改易となり、のち一年この地は天領となったが、慶安二年(一六四九)大久保忠職が入部して以後は松平・土井・水野・小笠原と譜代の藩主が交代した(→肥前国

〔町の形成〕

築城以前は松浦川と波多はた川・町田ちようだ川の河口が形成する潟や砂州で、地切ちぎれとよばれ、満島山まんとうざん周辺の砂州にわずかの漁夫が居住しているにすぎなかった。広高は築城と同時に城下町の町割にも着手し、「松浦拾風土記」に

<資料は省略されています>

とあり、また

<資料は省略されています>

とあって、あらかじめ知行増を見込んだ町名もつくられていた。正保年間の絵図(九州大学蔵)や元禄年間(一六八八―一七〇四)の絵図(小田原市立図書館蔵)に、この町割が記されている。

藩政中期には町田川を境として、左岸にそう町としてうち(本町・呉服町・中町・木綿町・京町・刀町・米屋町・紺屋町・平野ひらの町・しん町・八百屋町)そと(材木町・大石町・塩屋しおや町・東裏ひがしうら町・魚屋町)をおき、それに組続きの町として江川えがわ町を加えて唐津一七町と称し、のちさらに二八町となった。このうち職業名の町は、その仕事に従事する町人町である。郷村では屋敷地まで地子が課せられたが、町割内は免除されて経済活動が保護された。しかし実質的な町並であった水主町・新堀しんぼり百人ひやくにん町は郷方支配とされ、地子が課せられていた。

弓野町・鷹匠町・のぼり町・鉄砲てつぽう町・十人じゆうにん町・桜馬場さくらのばば山下やました町・坊主町は足軽など下級武士の、船頭町はお抱え水主の住居地で、城内じようない同様、武家町は藩の直接支配とされた。

町並の周辺には陣屋式御堂と塀をもつ寺院町の西寺にしてら町・東寺ひがしてら町が防御目的をもって設けられ、領内の寺院の大半がここにある。寺社は寺社奉行の支配であった。

町並の外にも土堤をもつ濠堀があり、近世城下町の典型をなしていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の唐津城下の言及

【唐津[市]】より

…唐津くんちの曳山行事は重要無形民俗文化財である。【川崎 茂】
[唐津城下]
 唐津城は1602‐08年(慶長7‐13)に築城されたが,この折に肥前名護屋城の材木や道具が多く用いられた。また,《松浦拾風土記》によれば,城下町は1万石に1町の割合で町割りが行われ,唐津藩12万3000石の石高に従って12町がつくられた。…

※「唐津城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」